冬 ミスティア・アーレン 婚約者の怪
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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最近、レイド・ノクターが怖い。
いや、彼の存在は地雷爆弾に変わりなく、日々恐怖は感じている。しかし将来的な恐怖ではなく、それとは違う何か言い難い物理的な、身に迫った恐怖を感じる瞬間がある。
そして、最近気づいてしまったのだ。彼は、彼の弟ザルドくんが私と仲良くしていると、必ず絶対零度の冷えた視線を私に送るということを。
「みすてあおねーさまーーー」
アーレン家の屋敷にて、彼の弟ザルドくんがこちらに駆け寄ってくる。流石レイド・ノクターの弟というもあり、充分童話の登場人物になれる際立って整った容姿をしている。
その天使のような微笑みは皆を魅了し、周囲には小鳥が集まり足元には花が咲き、一瞬にして天国を作り出してしまうような、そんなパワーがある。メロが可愛いの擬人化ならば、ザルドくんは純粋の擬人化だ。性格も、優しく、純朴で天真爛漫。ふざけて「空はソーダの味がするんだよ、だから雨はソーダ水だよ」となんて言えば信じてしまいそうだ。
そんな可愛い彼だが、この場で駆け寄って来られると非常に困る。
「ザルド、走ると危ないよ」
そう言ってザルドくんの後ろを追うように向かってくる婚約者……私とザルドくんの接触を異常に嫌うレイド・ノクター、その人がいるからだ。
今日は、うちの母とノクター夫人が、別の伯爵家の夫人限定のお茶会に行っていて、ザルドくんとレイド・ノクターが我が屋敷に来ている。ザルドくんは、幼少期特有の、全てに対し疑問を浮かべる「何で攻撃」を私が全て答えていたことで、私を気に入ってくれたらしい。「みすてあおねーさま」と呼んで懐いてくれる。
正直「レイド・ノクターの弟」「家族間で親交を深めることによる婚約解消の難化」は懸念しているものの、てちてちと擬音がつきそうなおぼつかない足取りで「みすてあおねーさま」と舌ったらずな甘い声で呼ばれれば、冷たく返すことが出来ない。
そして問題はさらにある。
レイド・ノクターは、私が彼の弟の傍にいることを、異常に嫌う。
私が少し会話をしようとするものなら、瞬時に弟を遠ざけ、隔離していく。私が弟の名を少しでも口にしようものなら、物凄い形相で睨んでくる。その時の雰囲気は貴族というより鬼人に近く、覇気というより怒気に近い。
そして極め付きはこの一言。「誰もいないところに、閉じ込めてしまいたい」だ。
本当に、彼はぼそっと言ったのだ。私がザルドくんと、ごっこあそびをしている際に。過保護というレベルに収まらない病的、というか完全な弟狂いである。狂っている。
思えば、兆候はあったのだ。四年ほど前の、彼が私に「弟か妹が出来る」と報告した日。あの時、私が激しく動揺した時、彼は絶対零度の冷えた目で私を見た。
多分、あの時私が少年に常軌を逸した愛情を注ぐ者、と勘違いしたようで、実弟が変態の毒牙に掛からぬよう警戒している。勿論私はそんな愛情は抱いていない。盛大な勘違いだ。
私も前世では妹がいて、それはそれは大切に思っているし、今でもその気持ちに変わりはない。兄弟や姉妹の冒険談を読むとそれこそズブズブに感情移入して、ボロボロに泣いてしまう。だから弟が大切で、変態かもしれない人間に近づけさせるのは嫌だという気持ちは分かる。が、彼の発言は、兄弟愛としては完全に度を越しているものだ。
しかし、それなら婚約を解消したい、と言い出してもおかしくないはず。実弟に邪な感情を抱く婚約者なんて、すぐさま排除したいはずなのだ。
それなのにどうして、と、彼と彼の弟を観察するうえで、ようやくわかった。
彼が、私との婚約を解消しない理由。
それはザルドくんの為である。
基本的に、家督は長男が継ぐ。基本的に次男は、どこかに婿に入ったり、私はアーレン家の一人娘である。レイド・ノクターと結婚する場合。私がノクター家に嫁ぐか、レイド・ノクターがアーレン家に婿に来るかの二択。
レイド・ノクターが、アーレン家に婿入りすれば、次男であるザルドくんが、円満にノクター家を継ぐだろう。どこに婿入りすることもなく。
それを狙っている可能性が、極めて高い。考えた当初は、「ないない、ふつうそこまでしないって、考えすぎ」とも思ったが、私とザルドくんのごっこ遊び中にぼそっと言い放った「誰もいないところに、閉じ込めてしまいたい」発言。恨み、怒り、いろんな感情がないまぜになり、呪詛を唱えるような声色だった。
弟思いも、ここまでくると病気である。もはや弟思いではなく弟狂いだ。
以前、イレギュラーを起こしたことでの、攻略対象の精神影響について、考えたことがあったが、まさにその影響が顕著に出ている。
私がエリクの家庭教師初恋失恋イベントを破壊して、エリクが主従ごっこ狂いになったように、彼は弟か妹が出来る報告を私にした際に、私が前世の妹を思い出してにやつき、もとい強い不審者的反応をしたことで、弟狂いになってしまった。
エリクに続き、彼も早急な治療、主人公と恋愛することによるヒロインセラピーが必要な患者になったのである。
留学の切り札が得られなかったことが痛い。相当痛い。ここにきて入学の目標が、「エリク、レイド・ノクターと主人公の恋愛イベントの円滑な進行」になるとは思っていなかったし、レイド・ノクターの恋愛イベントが進むということは、エリクの恋愛イベント以上に死に直結する。本当に痛い。留学の切り札を失ってしまったことが痛い。留学書類水没事件でレイド・ノクターは代わりの品を用意すると言ってくれたが、どうせなら僕も留学すると宣い、それは困ると一悶着も二悶着も繰り返し、結局うやむやになった挙句の果てに三部フルで紛失したのだ。
水没は悪気は無かったこととはいえ憎い。普通に怒る。仲の良い関係でも、皮の薄くて痛いところ、すねの辺りを強めにつねる怒りレベルだ。しかし、レイド・ノクター相手につねられる訳がない。そもそもそんなに仲良くない。
そんな弟狂いレイド・ノクターの視線の矢がざくざくと背中に刺さるのを感じる。振り切るようにそのまま頭を撫でると「おねーさま……」とすり寄ってくる。そしてそれと同時に、振り向かなくても分かる鬼人の手が私の肩にのせられた。
「随分と仲良くなったね、まるで以前から姉弟だったみたいだ」
「いや、その、このくらいの子は、ね、じゅ、純粋ですから」
対レイド・ノクター時、危機的状況に陥った場合どう逃げるのが最善か、私は知っている。お手洗いである。お菓子を持ってきます、と言えば「僕も一緒に行こうか」おすすめの本がある、と言えば「僕も一緒に運ぼうか」いい音楽がある、と言えば「あれ、ミスティア、音楽に興味が?なら今度一緒に歌劇でも……」と切り返され、逃げられない。気遣い、コミュニケーション能力の高さによる切り返しだが、私にとっては地獄の切り返しである。
それがお手洗いはどうだろうか、「僕も一緒に行こうか」とんだド変態である。前世、現代でそんなことを言ってみれば逮捕だ。間違いなく。
「私ちょっとおて」
「ぼく、お手洗い、いきたいです」
口を開いた瞬間、ザルドくんがぎゅっと私にお願いするように言った。このタイミングは、かなりまずい。まるで私がザルドくんに「トイレに行きたくなったら私に言ってね!」と約束していたように思われる可能性がある。
「えーと、場所は、分かるかな?」
「分かんないです、おしえてください」
ザルドくんに頷き「わかったよー」と一歩進もうとすると、がしりと腕を掴まれる。分かる。ザルドくんは腕をがしりと掴まないし、掴む人間は一人しかいない。
「僕、場所知ってるから、僕が行くよ」
そう言って、レイド・ノクターは私の腕から手を離して、ザルドくんの手を優しく取る。
「じゃあミスティア、ちょっと、待っててね?」
にこり、と笑ってザルドくんと共に部屋を出るレイド・ノクター。まずい、怒っている。目が全く笑っていない。
扉が閉まった音が、「せいぜい辞世の句でも考えておくんだな」と言っているように聞こえてくる。私は、その場に立ち尽くしながら、どう説明すれば誤解が解けるのかを考えたのであった。
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