冬 ミスティア・アーレン バレンタイン前夜の怪
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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夜も深まり、私は意を決して厨房に立つ。目の前にあるのは製菓用チョコレートの山だ。
私、ミスティア・アーレンにとってバレンタイン前日は戦いである。使用人約四十人ほどのチョコレートを用意する責務があるのだ。その量、自営業の個人経営の業者に近い。いや、もっとか。
事の発端はいつだろう。確かかなり前のバレンタインデーに、私がメロ含む屋敷で働く使用人の皆からチョコレートを貰うことに対して異議を申し立てたことかもしれない。
日頃の感謝を込めて、とバレンタインにチョコレートを贈ってくれる使用人の皆。その気持ちは嬉しいけれどこちらは元々、皆に働いて貰っている立場だ。皆が掃除をしたり、ご飯を作ったり色々お世話をしてくれているから、私は楽に過ごせている。
それに、この屋敷の使用人の皆は、「御嬢様は口を開けるだけでいいんですよ」と食事を食べさせてくれようとしたり、「屋敷の中は俺が運ぶので動かなくていいんですよ」と運ぼうとしてくれたり、「御嬢様は何もしなくていいんですよ、ただここにいるだけでいいんです」と肯定してくれたり、とにかく良くしてくれる。良くしてくれ過ぎてこちらが駄目になりそうになるため、全て丁重にお断りしているものの全部受けていたら本当に何も出来なくなりそうだ。
よって日頃の感謝の気持ちを込めるのはこちらのはずで、立場が逆。
だからバレンタインにボーナスを出す事を父に進言すること提案したものの、どういう訳か「それなら御嬢様からチョコほしい」という御者のソルさんと、彼に同調した使用人皆の発言で、私がバレンタインにチョコを用意し、使用人の皆に届ける話になったのだ。
ならばボーナスが貰いたい人はボーナスで、チョコレートが欲しい人はチョコレートで。希望制にすればいいと思い、私は了承した。
元々、約四十人から貰うチョコレートを食べきることは大変で、私はせっかく貰ったものなのに刻々と迫る賞味期限を気にしてあまり味わって食べられないことに申し訳なさを感じていた。それに、本来私が感謝を皆に示す立場なのだ。
だから、いい提案かもしれないと、その時が来るまで思っていた。
その道がいばらの道であったことに気付いたのは昨年のバレンタインデー二週間前。
アンケート片手に使用人の皆に要望を尋ねて回ると、何故か使用人全員がチョコレートを所望していた。それも、店の指定を聞くと、全員が手作りを所望した。
私の想像では、ボーナス九割、物珍しさでチョコレート所望一割で、しかも出荷先は一流店だった。しかしまさかの手作り所望が総意となったのだ。
全員の好き嫌い、アレルギーを調査し、衛生、食中毒に気を遣い四十人のチョコレートを用意することは簡単なことではない。バレンタインデー前日のチョコレート作りは戦場である。私は去年の今頃。確かに戦地を駆け抜けた兵士であった。
しかしその辛さも、チョコレートを受け取った皆の笑顔ですっかり吹き飛んだ。
だから、忘れていたのである。二月に入るまで、バレンタインデーの存在自体を。そして先週……バレンタイン二十日前に両親の言った「今年も、レイドくんへのチョコレート選びで街に出るんだろう? お父様も行きたい」「お母様もミスティアと出掛けたいわ」という誘いの言葉で思い出したのだ。
レイド・ノクター宛のチョコレートは両親同伴の下街に出掛け既に手配した。きゅんらぶの世界において、バレンタインデーは「男女間必須行事、婚約者同士であるならば尚更」な行事であり、若者のみに流行している行事ではなく、ほぼお歳暮、お中元と同義の行事だ。流石恋愛シミュレーションゲーム。
よってレイド・ノクターとハッピーな婚約の解消が出来ていない現在、チョコレート贈答は、「常識」になってしまっている為、なるべく今後に支障が無いチョコレートを選んだ。
ハートが無く、赤やピンクの雰囲気が無く、幼いレイド・ノクターの弟ザルドくんが誤飲の恐れの無い包装で、原材料に酒類の無いもの。その条件を満たしたものを店で見つけ、バレンタインデーに届くよう配送の注文をしたのだ。
母はハート形や可愛いのにしなくていいのか再三尋ねてきたし、挙句の果てに手作りじゃなくていいのかとまで聞いてきた。しかしそんないかにも本命みたいな雰囲気のものを贈りたくはないし、そもそもレイド・ノクターはバレンタインデーに何らかの思いを抱いているらしく、去年のバレンタインデー前あたりに、使用人のチョコは手作りなのか尋ねてきて私が肯定すると「バレンタインに手作りはちょっと……」と敬遠する様に言われてしまったのだ。これから先解消しない婚約関係にあったとしても、手作りが苦手な人間に手作りを贈ることはよくない。
ということでレイド・ノクターのチョコレートは手配し、そして今年は戦地リターンズだ。
四十人分のチョコレート作り、第二弾。
それでも伯爵家の中でもアーレン家の使用人の数は少ない方で屋敷によっては何百人と使用人を雇うらしい。多い。
しかし思い返せば、小さい頃はもう少し使用人が居た気がするのだ。確かパンやケーキを作る専門の人がいたし、パンケーキ専門の人だっていた。庭師だって一人では無かったはず。
神隠し……。
いやでも小さい頃だし、幻想かもしれない。
アレルギー表を見る。また今年一人ずつ聞いて、新しいものだが去年と同じだ。アレルギーの内容から、人数まで。そういえば夏に使用人の増員があったはずだが、数は増えていない。うん、新しい人が増えた覚えがない。ここ何年か、増えていない気がする。
増えていない……? そんなはずはない。毎年毎年増員されているはずだ。なのにずっと変わらないなんておかしい。
え……怖い。知らない間に人が増えているのも怖いし、減っているのも怖いけど、数がずっと変わらないのも怖い。
背筋に冷たいものが走る。
これ、もしかして七不思議的なやつじゃ……。そう思ったと同時に背後でカチャンと金属の音がした。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには長い黒髪を垂らしこちらに虚ろな目を向ける女でも、おかっぱ頭でニタリと笑う花子さんでもなく、ただ調理器具がずれただけだった。
安心した。良かった。これがホラーゲームなら確実にやられてた。
深呼吸をして、手を洗い、またチョコの山に目を向ける。
さて、今年も皆の笑顔の為に頑張ろう。
私は去年の皆の笑顔を思い出しながら、チョコの山に手を伸ばした。
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