宵の前に隠れる
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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夏の訪れを感じさせる午後、じめじめとした湿度と熱さの波状攻撃に見舞われ不快指数が跳ね上がるそんな季節。
私はのんびりとした気持ちで、侍女のメロ、庭師のフォレストに勉強を教わっていた。メロは私とはほぼほぼ年が変わらないのにきちんと順序立てて分かりやすく教えてくれるし、フォレストは品種改良や薬品の研究をするくらい頭がいいから、応用問題の解説も本を読んですぐ理解してしまう。始めこそ家庭教師を雇っていたけれど、大抵二か月ほど経つと一身上の都合でやめてしまい、今では二人に家庭教師も兼任してもらっている。メロはいつもの侍女の服だけどフォレストは腰巻エプロンを外してシャツにスラックスを履いている。普段フォレストは花屋のお兄さんみたいだなと思うけれど、今日はどことなく学生感が漂っている。
そんなことを思っていると、扉が激しくノックされた。「お嬢様、大変です!」と扉越しに聞こえる声はおそらくルークの声だ。返事をして扉に向かうと、メロがさっと扉を開く。するとそこにはオレンジ色の髪を揺らし、焦ったように肩で息をするルークの姿があった。ルークは焦ったように「あの、お嬢様、先ほどですね」と断続的に言葉を続ける。
「どうしました、ゆっくりで大丈夫ですよ」
「あ、あの、婚約者様がお見えになりました」
は? 意味が分からない。しかし声に発する前に後ろのフォレストが普段の柔らかな声色とは全く異なる威圧するような声で「は?」と呟いた。その様子に混乱しかけた脳が一瞬停止し、また動き出す。
「あの、レイド様はどんな用事でうちに?」
「はい、お嬢様と、お話がしたいそうです。それで今、執事長が客間に案内をして……」
ルークの言葉に唖然とする。レイド・ノクターが一体私になんの話をしに来たというのか。私は半ば絶望しながらとりあえず家令であるスティーブさんを巻き込むわけにはいかないと部屋を出て、客間へ急いだ。
「ああミスティア、久しぶり」
客間へ辿り着き、扉を開くとレイド・ノクターが客間のソファに座っていた。レイド・ノクターは今まさに家令のスティーブさんに紅茶を淹れてもらい、そのカップを手に取る途中だ。彼はティーカップに伸ばしていた手をゆるやかに自分の膝に置き「会えてうれしいよ」と唇に弧を描く。
「ど、どうして」
「近くに用があったんだ。だからご挨拶に」
「ご挨拶……」
それは、礼儀的なもの、か。部屋に立ち尽くしているとスティーブさんは私の分の紅茶を淹れ退席していく。良かった。ここで何かあってもスティーブさんはこれで巻き込まれずに済むと安堵すると、スティーブさんは「追い出す場合は三度ノックを」と私とすれ違う瞬間かろうじて聞こえる声で呟き部屋の扉を閉めた。その声に驚愕していると同時にレイド・ノクターは「紅茶が冷めてしまうよ?」とひたすら部屋で立ち尽くす私に声をかけてきて、恐る恐る座った。
「ずっと会う機会が無かったし、あの時から……一月と半分それ以上かな? 二月は経ってないけれど……、ずっと話がしたいと思っていたんだよ」
「どうも」
あの時からというのは勿論事件のことだ。想定外すぎて返答がままならない、どうもしか言えない。
「お詫びもしたいと思って、屋敷へ招待の手紙を父から送っているはずなんだけど、まだ、心は落ち着かないかな……」
申し訳なさそうなレイド・ノクターの声色。でもこれは爆弾の投下だ。屋敷の招待状が来ていることなんてもう十分すぎるくらい父から伝わっている。それをさり気なく流れるように、「今日はお腹が」「今日は頭が痛い」「占い的によくない」と断るよう仕向け続けているのだ。
父と母は、ノクター家夫妻と意気投合してしまったらしく誘ってくるが、屋敷で働くみんなは「断っていいのでは?」と賛同してくれたし、母や父にさり気なく、「御嬢様は体調が……」と加勢してくれたし、侍医のランズデー先生には虚偽の診察までしてもらい、口裏を合わせてもらっている。
「お詫びなんて気にしないでください。あの日は騒ぎ立ててしまって、こちらこそお詫びしたいくらいで」
「そうなんだ。あまり気を遣わないでほしいな。父も母も君に会いたがっているし、それに来年、僕に弟か妹が出来るから、今のうちに君を屋敷に招待して、感謝の気持ちを伝えたいんだ」
「え」
レイド・ノクターに弟や妹はいないはずだ。なのにどうして、と考えてから気づく。そうか、ゲームと違い、現在彼の母は生きているのだ。何もおかしいことじゃない。一人納得していると彼は私の様子に疑問を感じたようだった。
「どうしたの?」
「ああいや、兄弟っていいものだなーっと思って」
「……君は一人娘だよね?」
鋭い指摘に飲みかけの紅茶を吹き出しそうになる。そうだ、ミスティアは一人娘だ。今の発言は軽率だった。まるで長年兄弟がいる人間がしみじみと語るような発言だった。
「お、弟や、い、妹に深い憧れがあって」
前世の、明るくて社交的な妹。私みたいな姉をたまに怪訝な目で見るけど慕ってくれていた。きっと私が死んでもしっかりやっていけてるだろう。本当にどこにお出ししても恥ずかしくない、全てにおいてよくできた妹だった。
っていうかこの世界に妹がいれば万事解決していたのに。頭もいいし、運動神経もいい。きっと可愛くこの世に生まれてきたはずだ。
顔がにやけていたのか、ふとレイド・ノクターに怪訝な顔で?見られていることに気づいた。やめてほしい。空想の妹を心の中で愛でている訳ではない、ちゃんといたんだと言えるはずもなく、そのまま俯く。
ああ駄目だ。俯いていたら肯定しているみたいだ。顔を上げると、レイド・ノクターは思い出したかのように呟いた。
「……僕の家族は、変わったんだ」
「変わった、とは」
「……変わりすぎて、どこがとは言えない。でも間違いなくいい方向で……それは君のおかげだと思う。ありがとう」
そう言って彼は手を差し出す。その瞳は嘘は言っているように思えない。手を取るくらいは大丈夫だろうか。この手を取ったことでいずれ布石にならないだろうか。でもこのまま握手を拒んでも怖い。
恐る恐るその手を取ると彼は満足そうに笑う。その笑顔は十歳の少年といった顔で、何故かレイド・ノクターらしいと思う笑顔だった。
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