身勝手な誤想は病となるか
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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屋敷の大広間の前に立ち、使用人たちが壁に大きな肖像画を飾っていくのをじっと見つめる。父と母が並び、僕を挟むように笑っている。母譲りの瞳と髪色、そして父譲りの顔だち。そして額縁の中央には、ノクター家の紋章が刻まれている。
僕は、あの紋章を見るたびに、ノクター家を継ぐものとしての自覚を改めるように、生きてきた。紋章、そして家族三人並ぶ肖像画を見つめながら、こんな日が来るなんてと静かに昔について思い返す。
昔、といっても、僕が幼いころ。今より、半分くらいの年齢だった頃。僕は当時から、常にノクターを継ぐことについて考えていた。周囲からの期待もあり、ノクターの後継者としてその期待に応える責任があると考え、常に、何事においても僕は優れていなければならないと思っていた。枷にも似たそれは日に日にその重みを増していき、僕は押し潰されないよう、ノクター家の名に恥じないよう完璧であるよう努め続けた。
苦しさはあったけど、僕は決して不幸ではなかった。何故なら穏やかな母、優しい父がいたからだ。頑張る僕を見て父や母は嬉しそうに褒めてくれた。僕の話題を、評価を楽しそうに口にして、二人で会話をする。置いてけぼりにしないでと僕が拗ねて、また三人で笑う。その時間が幸せだった。
だけど、いつからだろう。
父は屋敷を空けることが多くなり、母はただじっと窓を見つめることが増えた。父はいつ帰ってくるのか母に聞けば、母はただ笑って何も答えない。
仕事が忙しいから父は屋敷に帰ってこない。二人はすごく仲がいいから、寂しくて母は体調が悪いのかもしれない。
けれどいずれ父は忙しくなくなる、ずっとではない。父のことが大好きな母だから、きっと父が忙しくなくなれば母も元気になる。それに父だって、母が大好きだ。今は仕事が終わらないだけ。そう思っていたけれど、父が屋敷を空けることは続いた。それどころか頻度は増え、父が屋敷に居るということが珍しく、驚くようなものに変わっていった。
だから、最良の結果を残し続けていこうと思った。いつか父が忙しくなくなって、そして母が元気になった時、きっとお互いどう接して、どう話していいか分からない。それだけの時間が空いていた。だから僕の話題で会話が弾むように、前みたいに、いつかまた昔みたいに、僕のことを話題にして、楽しい話ができるように、ひたすら僕は努力した。
でも、父も帰らない。母は部屋からあまり出なくなった。
そうして、希望への努力が義務に変わった頃だ、父と母の話を使用人同士の会話で聞いたのは。
その話は、本当に、本当にありふれた、政略によって結ばれた二人の話だった。
金を作る為に母は父と結婚したこと。家柄を得る為に父は母と結婚したこと。父は名誉を、地位を買って結婚した。母は、金を得るために父と結婚したのだ。そう聞いたとき、不思議と悲しくはなかった。今までの引っかかりのようなものが、すとんと落ちた気がした。
ああ、二人の間に愛はなかった。ただ、二人は金を作り家柄を守り、その結果僕が産まれた。それだけだった。じゃあ、あの、仲が良かったように見えたものは幻だ。そう感じると、あれだけ元通りにしたいと、前に戻りたいと考えていた記憶も思い出も、母も父も、どうでもよくなった。
もう、何にも期待しない。どうでもいい。そう思ってもなお、僕は完璧である為の努力を欠かさなかった。欠かすことが出来なかった。そうすることは、僕にどうしようもなく染みついていた。
もしかしたら、僕は家族が元通りになることを、心のどこかで期待しているのかもしれない。そんな自分が嫌で仕方がなくて、だからこそ「婚姻は、愛する者同士でするものでしょう」と言ってのけた、不安を帯びた声に、憂いを帯び揺れる瞳に、心底苛立った。
僕の婚約者。ある時、父が帰ってきて、僕を呼びつけ「婚約の話を持ってきた」と、以前の装いではなく冷めた瞳で紹介してきた、アーレン家の令嬢……ミスティア・アーレン。伝統ある高貴な血族で、昔の評判は気位が高くその名を聞いただけで萎縮する人間が後を絶たない家。名を聞いただけで分かった。これは家柄を重視した結婚だと。父と同じだと。相手に対して思うことはなく僕はただ漠然とそんな風に思った。
だから顔合わせ当日、僕は父と母が並び立っていることが珍しく、その珍しさに不思議な安堵を覚え、徐々に相手の令嬢に同情的な気持ちがわいてきた。
きっとアーレン家も、伝統と家柄を重んじる、僕と同じような家族なのだろう。可哀想に、彼女も被害者だ。そう思っていたけれど、僕に宛がわれた婚約者、ミスティア・アーレンとその父と母は、絵に描いたような幸せな家族そのものだった。
アーレン伯爵が、夫人を見る目も、アーレン夫人が、伯爵を見る目も、夫妻が令嬢を見る目も、僕の家とは違う。
愛し合った男女から産まれた娘。同じだと考えていた彼女の何もかもは、全て僕と違った。気に入らないと、秘かに思った。
実際顔を合わせてもその印象は覆らなかった。愛されて、この世にどれほど醜いものがあるかなんて知らないくせに、やけに強い瞳。それでいて諦め、疲れたようにも聞こえる淡々とした話の仕方。彼女を構成する全てが僕は気に入らなかった。
彼女のことが理解できない。理解しようとも思わない。でも、顔合わせの最中はそれを覆い隠すように常に笑顔を浮かべていた。何をしても、何を言っても笑みを浮かべる。しかし彼女は俺に対し恐怖し警戒していた。完璧に、隠していたはずなのに。
理由は何か分からない。けれど分かる必要も無いとそれ以上考えることはしなかった。
顔合わせ後は両家好感触ということで、当事者の意思も同じであればという話だった。でもそれはあくまで表向き。あくまでお互いの相性が良かったということにしたいのだろう。どうでもいい、何もかも。僕は彼女について別々に尋ねてくる両親に対して「とても人柄のいい令嬢でした」とただ決まりきったような言葉を返していた。
それから、彼女をまた屋敷に招待した、彼女は終始僕に怯えていた。
そして次の日珍しく朝の食卓に父の姿があった。その日は一年に一度必ず劇場へ足を運ぶ日だった。そして一緒に流行りの劇を見て、外で夕食をとる。何年も家族三人で行っていた習慣は、今は母と二人でが当たり前だ。父はその日も自分は昼に出ると冷たく通告し、母は表情を変えることなく頷いていた。
そうして昼になり、父が屋敷を出ようとした。何も変わらない、いつも通りの日常。しかし、その当然を壊すように突然ミスティア・アーレンが来訪した。そしてそのまま玄関ホールに駆け出すと、突然癇癪を起し始めたのだ。どこで知ったか分からないが、今日共に劇場に行きたいと、あまつさえ僕の父と一緒がいいと。
理解できない。
両手をじたばたと振り声を荒げる姿は以前の彼女とは全く別人でただただ混乱した。ある種子供らしい姿ではあるのにあまりの異質さに恐怖すら覚える。それは父も同じだったのか、その様子に思うところがあったのか、仕事を取りやめると少女の願い通り劇場へ同行することを承諾した。
こんな風に、僕も我儘を言えば良かったのだろうか。そんな考えを振り払いながら馬車に乗りこむと、彼女はまた僕と二人でいる時と同じように静かになり、一言も話そうとしなくなった。僕の母が気を使い話しかけても空返事、父は顔を顰めているのが空気で分かり、彼女の両親は僕の父と自分の娘を見て、困った顔をするばかり。
本当に迷惑な令嬢だなと、思った。どうでもいいとは思ったけれどここまで来ると先が思いやられるし、別の人間が相手ならいいとすら感じた。婚約をする前に彼女の癇癪を知っていれば、きっと父は絶対に彼女を僕の婚約者に選ぼうとはしなかっただろう。そう思いながら街の光に照らされ一瞬だけ見えた彼女の横顔は、反省している訳でも、機嫌を損ねている訳でもなかった。ただじっと自分の気配を消し、何かを待っているようだった。
そしてしばらくして劇場に到着すると、母の甥が姿を現した。何度か会ったことはあるものの、どことなく雰囲気が変わっていて、すぐに気づくことは無かった。その異様さに気味の悪さを感じていると、父が甥を紹介し母が彼女に扉を開けるよう促した。しかし彼女は、扉を開くことはなかった。
それどころか、強い、凛とした声で「夫人は、伯爵のことが好き」と甥に宣言した。突然の彼女の発言に父も母も戸惑う。しかし、彼女が「だからあなたなんて必要ない。あなたは夫人に愛されない。夫人は伯爵のことを愛している、だから、あなたは、いらない」と呟くと、甥の態度が豹変したのだ。
「うるさい、うるさい、うるさい! 俺と彼女は結ばれる運命なんだ!」
そう言ってナイフを取り出した男の目を、僕は一生忘れないだろう。
車内が、先ほどとは全く違う緊迫した空気に包まれ、呆気にとられた車内。けれど唯一ミスティア・アーレンだけが変わらなかった。彼女はただ強く扉を握りしめたまま逃げようとしない。ひたすら、車内の人間を守るように扉の手すりを全力で掴みあげる。そして彼女の手元を見て分かったのは、手すりが縄のようなもので座席と固く固定されていることだった。僕はただ動けず目の前の光景に唖然としている間に、父や、アーレン伯爵が彼女に加勢をし、やがてアーレン夫人が彼女を引っ張り込むように抱き、身を固くしていて、僕もはっとした母に抱きしめられ、しばらくそうしていると甥は劇場の守衛や警察隊に取り押さえられた。しかし、次の瞬間だった。
父が叫びながら、扉を開け放つと甥に突進し、殴り続けた。母への愛を叫びながら警察隊に引きはがされながらも怒りを露わに甥を殺そうと暴れた。彼女が結んでいたであろう縄は引きちぎられ、血に染まり、父が引きちぎったのだと呆然としながらも理解をした。
そして、父はしばらく暴れ、落ち着いたのは甥が警察隊に連行されてからだった。それからアーレン伯爵と夫人、そして僕の父と母は警察隊の聞き取りに応じ、残りは後日にと、その日は解散になった。
そうして僕と、父と母。三人で屋敷に戻ると、僕は早々に部屋に戻され、次の日父と母に広間へ呼び出された。
椅子に座る二人の目には隈があり、母は目を腫らし、父は左の頬を腫らしていた。父と母は、一晩中何かを話していたらしい。もしかしたら、離縁でもするのかもしれない。覚悟を持って椅子に座ると、事件の経緯、今まで何があったかを二人は僕に話しはじめた。
甥は、何年も何年も、母に怪文書を送り届けていた。彼は恋文と主張していたが、紛れもない脅迫文だと父が語っていた。
そして父は、母に何者かから怪文書が送られていたことを知り、ずっとそれを調べていたらしい。その怪文書にはあたかも犯人と母が相思相愛であるかのように書かれ、あまりの自信ある書き方に、父は母に対しても疑いをもち、嫉妬で狂いそうになる気持ちを抑え、仕事をした後はそれを調べる生活を送っていたと言う。
この話を父がしている時、母は父を睨んだ。父は俯いた。
そして母は父が帰らぬ理由を自分が不要な存在だからだと決定付け、胸を痛めていたらしい。
この数年間の隔たりは、双方に愛があるからこそ、拗れてしまったことが原因だった。
僕はそう聞いて、ずっと気になっていたことについて尋ねることにした。二人の結婚は、それぞれの目的の為だったのかと。
しかし、二人から語られた真実は、全く異なっていた。
元々、父と母は使用人と主。父は代々ノクターに仕える使用人、母はノクターの令嬢という関係であった。
しかし幼い頃から母を想っていた父は、己の全てを利用して一度他の家へ養子に入り、莫大な資産を築き上げ、半ば母を買う形で婿に入り結婚したと言う。それらを知られれば、当主が平民上がりということでノクターの立場が、そして母の立場が悪くなると秘匿された。だから噂を下手に否定するより、そう思わせていたほうが都合が良かったのだと二人は僕に話をして、そして謝罪した。話をすることもせず、勝手に行動し、勝手に傷付き、結果的に僕を傷つけたと。
それから、父は、母と夫婦らしい関係を築いている。むしろ無理やりにでも家に帰っているし、父は母から離れようとしない。事件の不安もあるだろうが、元々愛し合っていた夫婦だったのだ。父と母、三人で居ることも、出かけることも増えた。
昔とは異なっているけれど、かつて望んだものが少しずつ形を変え、戻ってきているように感じる。
でも僕は、父と母を見るたびに、ふと思うことがある。事件の日の、彼女についてだ。
彼女が、ミスティア・アーレンがいなければ、簡単に扉が開かれ母は殺されていた。誤解も解けないまま、きっと永遠に、父と母はすれ違っていただろう。だから、彼女には感謝している。
しかし、父ですら特定できなかった犯人の存在を、いや、甥が母を殺そうとしていることを、彼女は何故分かったのだろう。偶然の我儘であると警察隊は話をしていたけれど、そんなことはないはずだ。彼女はそれまで酷く静かな人間であったのに、あの日だけ様子がおかしく、そして甥が連行されると暴れていたのが嘘だったかのように落ち着き払っていたところから見ても、あの時の様子は異常であった。
でも、そうなると疑問が浮かぶ。
あの日彼女が全てを知っているとして、何故僕に怯えていながら命を投げ出してまで僕の母を救おうとしたのだろう。
母や父、僕と以前に接点があったのかとも思ったが、調べても全く出てこない。会って日の浅い相手の母親を救う理由が、どこにあるというのだろう。
警備隊が取り押さえることが遅かったら、父の加勢が遅れていたら、彼女は刺されていたはずだ。その危険性を彼女は分かってた上で行動したのか?
理解できない。
彼女に感じる想いは、初めて会った時に感じた様な不快感はない。不安感にも近く、期待感にも似ている感覚だ。
……ミスティア・アーレンには、不確定な要素が多い。
いつの間にか閉じていた目を開き、前を見据える。事件からおおよそひと月。父はアーレン家に手紙を送ったと言っていた。落ち着いたころに、食事会をしようという内容だ。おそらく、遠くない日に食事会が開かれる。ミスティア・アーレンともまた会うことになるだろう。
その時は、きちんと、きちんと接したい。
前に接したときは、笑顔で隠していたつもりといえど、酷い態度を取ってしまっていた。きっと僕の感情が伝わってしまっていたのだろう。だからきちんと謝罪をして、そしてお礼が言いたい。
僕は、きっと叶うことがないだろうと考えていた三人で並ぶ肖像画を前に、いつか自分の家族の絵もこんな風に飾るのだろうと考えながら、肖像画がまっすぐと飾られていくのを見つめていた。
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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