バゲットサンド
【火星アルテミュア大陸中央 ウラニクス湖畔】
数時間前まで5億6千万体のジュピタリアンが集結していた湖畔を1体の水素クラゲが所在無げに漂っていた。
『皆……何処イッタ?』
仲間を探しながら漂う水素クラゲが呟く。
この水素クラゲは、火星日本列島へのグルメツアーに参加しようと大赤斑最深部の異相空間前まで辿り着いたが、まだ見ぬ唐揚げや海鮮丼への熱意が高じて列の順番待ちを我慢できず、自前の異相空間を形成しようとした所を琴乃羽美鶴に見つかって罰として”最後尾”に回されてしまったのである。
目の前の同胞たちが続々と異相空間へ入っていき、最後に居た空中帆船が異相空間に入ると空間が急速に縮小していき、慌てた水素クラゲが全速力で突入したものの、ほんの僅かに遅れた水素クラゲが飛び込んだ先は無人のウラニクス湖畔だった。
『コノママ戻ルノモ……ツマラナイ』
まだ見ぬグルメへの熱意は飽くなき好奇心同様、この水素クラゲが持つ存在証明である。
『……何処へ行コウカ――――――ムムッ!?』
彷徨う様に漂っていた水素クラゲがピタッと空中に静止すると、触手で周辺の空気を読み取っていく。
『アソコ……何カ美味シソウ』
触手で何かを感じ取った水素クラゲがふよふよと長大なコンクリート地面に佇む女性の方へと向かっていく。
ウラニクス湖畔のユーロピア共和国軍基地の滑走路脇でジャンヌ・シモン首相が停まっているジープに寄りかかりながら軽食を摂っていた。
ジュピタリアン長と大月満の直談判に同席した岩崎首相に出会ったジャンヌは、食材やレシピ調達で大まかな方向性について打ち合わせを行っていた。
「ムッシュ大月のジュピタリアン自炊化計画に賛同する日本と歩調を合わせる事で我が国の木星進出が一気に捗るわね」
アルテミュア大陸西海岸産の薄切りのスモークサーモンとクリームチーズ、レタスとスライストマトを挟んだバゲットサンドを食べながら独り言ちるジャンヌ。
「問題は……自炊レシピと材料の選出に僅かな時間しか無いという事ね」
塩気の効いたサーモンは程よくひんやりとしており、レタスとスライストマトの新鮮さも相まって岩崎首相との利害調整でのぼせた頭を正気に戻してくれる。
「……いざとなったらジョルジュを連れて木星に行けば何とかなる」
開き直ったジャンヌが無謀とも取れる言葉を漏らす。
火星日本列島の”黄将”東神奈川店で中華料理を修行中の彼ならばジュピタリアン好みの味に何かひらめきがあるかも知れない、とジャンヌは思っている。
彼の相棒である水素クラゲが彼の作る賄いに文句を言わないと言う支援者の報告を聴いたジャンヌはそこにヒントを見出そうとしていた。
「まあ、何にせよ――――――あら?こんな所に珍しいわね」
さらに思索を続けようとしたジャンヌだが、此方へ近づいてくる1体の水素クラゲに気付く。離れた位置で護衛していた兵士が水素クラゲに向けて自動小銃を構えるのを手振りで制止する。
やがてジャンヌの目の前まで来た水素クラゲが傘の色を青と黄緑色に点滅させながら触手をジャンヌが持つバゲットサンドに向ける。
「あら?コレが欲しいの?」
『何カ。美味シソウ』
首を傾げるジャンヌに傘をほのかなオレンジ色に染めて応える水素クラゲ。
「食べかけで悪いけれど……いる?」
まだ3分の2が残るバゲットサンドを軽く差し出してみるジャンヌ。
『オオキニ。マドモアゼル』
両脇から伸ばした触手で丁寧に受け取る水素クラゲ。
『フオオォ!……旨イ』
傘の付け根にある鋭い口からバゲットサンドを摘んだ水素クラゲが驚きと喜びの声を上げる。
「ふふっ!マドモアゼルなんて、ジュピタリアンはフランス語が旨いのね。貴方、お名前は?」
バゲットサンドに歓喜する水素クラゲを微笑ながら見るジャンヌが尋ねる。
『名乗ルホドノ者デハゴザイマセヌ……我ハ水素クラゲ?』
自分で言っているものの、意味が分からないのか傘を傾げる水素クラゲ。
「そうなの?……じゃあ、貴方は今日からテリーヌ1号と名乗りなさいな!」
『ウイ。マドモアゼル』
ジャンヌの命名に恭しく傘を下げて応じる水素クラゲ”テリーヌ1号”。
傘を下げた水素クラゲからふわりと舞い上がった光の粒がジャンヌに降りかかる。
「まぁ綺麗。祝福みたい」
素直に喜ぶジャンヌ。
「時間ね。そろそろ首都に戻らないと」
遠くに控えている護衛が腕時計を示しているのに気付いたジャンヌは、テリーヌ1号に手を振ると駐機していたラファール戦闘機へと歩いていく。
水素クラゲテリーヌ1号は、ふよふよと戦闘機脇までジャンヌの後ろからついていく。
「それじゃ!今度遊びに来てくれたらフレンチのフルコースをご馳走するわね!」
『ラジャ、マドモアゼル』
軽い足取りで梯子を上ってコックピットに入ったジャンヌがテリーヌ1号に別れを告げる。
律儀に触手で敬礼するテリーヌ1号。
『こちら管制。ラ・セーヌ001離陸を許可します』
「ラジャ。ラ・セーヌ001発進」
ジャンヌが操縦するラファール戦闘機がエンジン全開で滑走路から離陸して西の空へと飛んでいく。
『……言質取リマシタ』
ジャンヌを見送ったテリーヌ1号は静かに呟くとふわりと空高く浮かび上がると、ジャンヌに取りついた金色の胞子=幼生体を辿って西の空へと飛んでいく。
テリーヌ1号の呟きは思念となって、木星大赤斑最深部に今なお集まり続ける水素クラゲに伝わっていくのだった。
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【火星衛星軌道 第1衛星フォボス【英国連邦極東・ユーロピア共和国ダンケルク宇宙基地】
4年に起きた宇宙国家アースガルディアとの戦争時、地球から襲来するアンゴルモア艦隊に備えるべく衛星フォボス、ダイモスに在るマルス・アカデミー施設を地球人類向けに大月美衣子と結が改装開放したのが今日の宇宙基地である。
秋葉原カフェで軌道戦士バンダムに触発された二人がノリと勢いで改装開放したとも言える。
人類初となった宇宙戦争や真世界大戦を経た現在は、地球と火星を往来する軍民シャトル中継基地と外宇宙からの隕石、今尚地上で蠢く火星原住巨大生物を日夜監視している。
この宇宙基地司令部の管制区画では少し前に探知された飛行体に注目が集まっていた。
「ヨコタ・ベースから出た飛行体の速度はマッハ7!異常です!」「ユニオンシティの秘密兵器か!?」
司令部のレーダーオペレーターが声を漏らすと隣の宇宙管制官も首を傾げる。
「そう言えば、昔ダイモス基地の司令官がヨコタには”オーロラ”戦闘機が配備されているらしいと言っていたな」
オペレーターの後ろで状況を見守っていた当直司令が呟く。
「大佐殿。シャドウ帝国が崩壊した今、火星上の脅威はもはや無いと言ってもいい状況なのに何故でありますか?」
「君達にはネットニュースを詳しく見分ける事をお勧めするぞ。
火星と地球とでは日々の関心事が全く異なるのだ。地球時代と違って当たり前の様に脚色するメディアが少ないが、今は情報の分析が必要なのだ」
宇宙管制官に答える当直司令。
「故に、火星では無意味に見える行動も地球からの意図が有ると連想する事も必要だ。ヨコタを出た飛行体は何処へ向かっている?」
オペレーターに説明した当直司令がレーダーオペレーターに訊く。
「進路南東。ヘラス大陸中央です」「向こう側の自衛隊ダイモス基地も飛行体を探知。ミラーボール衛星を通じてデータリンクします」
レーダーオペレーターと宇宙管制オペレーターが報告する。
「ヘラス大陸はイスラエル連邦領土だ。オーロラ戦闘機とイスラエル連邦が結びつく事はなんだ?」
呟くと顎に手を当てて考える当直司令。
「ガリラヤ州のイスラエル連邦火星派遣軍から広域通信受信。火星両極上空の飛行禁止を通告しています!」「いきなり何を勝手に!」
通信オペレーターが声を上げ、他のオペレーターが憤る。
「ヘラス大陸に降りる予定のシャトル便はどうしますか?」
「港内待機だ。様子を見るしかあるまい」
宇宙管制官に訊かれた当直司令が答える。
「司令!ガリラヤ州政府航空局長から直接通信です」
「此方へ繋いでくれ」
通信オペレーターに応える当直司令。
「フォボス基地当直司令カレー大佐です」
『ガリラヤ州航空局長シャミルです。連邦軍の通達で火星両極上空が飛行禁止区域となりました。故にフォボス発のシャトル便の着陸許可は取り消されました。
新たな軍の通達が無い限り、ガリラヤ空港への着陸許可は認められません』
「飛行禁止理由は?」
『特別軍事演習と聞いております』
「禁止期間は?」
『暫くとしか――――――はい。司令、たった今ガリラヤ空港に総督の封鎖命令が出されました。失礼します』
当直司令に飛行禁止について説明していた空港局長だったが、途中で新たな通達があったのか途中で通話が打ち切られてしまう。
(何が起きる?)
とても嫌な予感がする当直司令。
「レーダーオペレーターは飛行体監視に集中。宇宙管制はダイモスと手分けしてニューガリアか羽田・成田へ誘導しろ。待機要員も配置に付かせろ」
当直司令の指示を受けて慌ただしく動き出す将兵達だった。
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2027年(令和9年)5月7日夕刻【火星南半球 ヘラス大陸中央部上空】
東京の在日ユニオンシティ防衛軍横田基地を発進したオーロラ戦闘機は、高度5000フィートで胴体中央部のペイロードを開くと1発の誘導爆弾を投下した。
誘導爆弾は自由落下しつつ本体後方の尾翼をリモートコントロールでパイロットが制御しつつ、生き残りの巨大ワームが形成した穴の真上に落下していく。
高度200mまで落下するとパラシュートが開いて落下速度を落としていく。
そして地上15mまで落下するとパレット状に組み込まれた炸薬が一斉に爆発して原子爆弾が爆縮すると強烈な高温高圧により隣接区画の重水素と三重水素が核融合反応から核分裂に至った。
ヘラス大陸中央部で20メガトンの水素爆弾が爆発、半径50Km圏内が放射能と熱線による炎に包まれて砂漠表層は高温で溶解してガラス状に変化していき、人工太陽が夕暮れのヘラス大陸中央部の砂漠を明るく照らしていく。
人工太陽が治まった爆心地には半径800m、深さ90mの巨大な穴が生じていた。
30分後、北半球アルテミュア大陸東北部に到達したオーロラ戦闘機が投下した2発目の水素爆弾も巨大な人工太陽を生じさせ、火星北極圏の一部を融解させるほどの核爆発となるのだった。




