目覚め
2022年(令和4年)1月22日未明【東京都世田谷区 自衛隊中央病院 集中治療室】
大月はふと、目を覚ました。
しばらくぼんやりと天井を見つめ、思考を働かせようとしたが酷い寝起きみたいに頭が重く、身体はピクリとも動かすことが出来なかった。
助けを呼ぶ声を挙げようにも、酸素吸入器が喉奥―――おそらく気管まで入っているのだろう。どうにも出来なかった。
どうにも出来なかった、と頭の中で喋ると何故か悲しくなって涙が止まらなくなった。喉から嗚咽が込み上げるがどうにもならない。
大月はただひたすらに涙を流し続けていた。
大月の変化に最初に気付いたのは、集中治療室隣の待合室で待機していたマルス人クローンに宿る電子思念体『ミーコ』だった。
ミーコは隣で仮眠していた西野ひかりをユサユサと揺さぶると耳元で囁くように告げる。
『ひかり。彼が起きたわ』
その言葉を耳にした瞬間、ガバッと目を見張る瞬発力で飛び起きた西野は、集中治療室内部を移すモニターに目を凝らす。
ひかりが目を細めてよく見ると、大月は目を開けて涙を流しているようだった。
「っ!」
「大月さんが起きました!」
息をのんだ西野が、ナースステーションと医療スタッフに直通するインタホンに向かって叫ぶ。
西野がインタホン委に向かって叫ぶのとほぼ同時に、大月の変化に気づいた東南海大学の岬渚紗教授が大月のもとへ駆け付けて容態の確認を始める。
大月の容態確認を終えた岬は、西野が視るモニターに向かい大きく手で輪を作ると、大月の顔の近くまで監視カメラを近づけ、彼の耳元で何事かを囁く。
岬の囁きに反応した大月は、カメラに目を向けると微笑む。
「……良かった。本当に」
モニターをじっと見つめていた西野が、涙を流して喜ぶ。
夜が明けた頃には、大月が目を覚ましたとの連絡を受けた西野の祖父である仁志野清嗣や岩崎官房長官、東山首相補佐官と角紅同僚の春日が駆け付け、大月が昏睡状態を脱したことを心から喜んだ。
病院での朝食後、あらためて大月の治療状況を確認した岬教授から西野ひかりと仁志野、イワフネが別室に呼び出されて大月の現状と今後のリハビリについて説明を受ける。
岬は、極力感情を自制しながら説明した。
「―――知っての通り、大月さんの皮膚は殆どが喪われています。
全国各地から送られた代用皮膚を毎日当てていますが、全身からリンパ液が常に出続けています……意識のある状態で今後毎日、全身の皮膚を取り替えていく地道な治療は想像を絶する痛みを伴うでしょう」
「……っ!」
説明を聴く西野の顔が引き攣る。
「そして数ヵ月後に皮膚が定着・自力で再生成されても、皮膚が固まらないように、毎日身体を動かさないといけません……これも相当な痛みを伴います。
大月さんが長期に及ぶ苦痛に耐えられるか、精神的なケアが今後の問題になるかもしれません」
岬は説明を終え、誰も言葉を発せず、室内に沈黙が漂う。
「麻酔で痛みを緩和出来ないのですか?」
仁志野清嗣が訊く。
「麻酔の主成分はモルヒネです……毎日麻酔をかけ続けると、薬物中毒になりますね。確実に」
岬が答える。
再び沈黙に包まれる室内。
「―――そこで、イワフネさんです」
「……?」
岬は不意にイワフネを見つめて話しかけ、イワフネが僅かに首を傾げて岬を見る。
「イワフネさん。
もし、マルス人が鱗を剥がさなくてはならない程の大怪我を負った場合、そちらではどの様な治療を行うのでしょうか?」
岬が質問する。
「……その場合、我々は肉体を半冬眠状態にした上で医療カプセルに入り、鱗を再生させる成分をカプセルから注入して皮膚の再生を試みるでしょう」
暫く考えた後、ゆっくりと言葉を選んでイワフネが答える。
「その医療カプセルは、マルス・アカデミー尖山基地に有りますか?」
岬が目を細めて訊く。
「有ります。
過去に第3惑星調査中に負傷した隊員を収容して、治療に使いましたね」
当時を思い出しながらイワフネが答える。
「―――これだっ!暫くお待ちくださいっ!」
イワフネの返事を聞くなり部屋を飛び出して行った岬に、室内の全員が困惑してお互い顔を見合わせる。
数分後、岬に手を引っ張られながら岩崎官房長官が慌ただしく入ってくるなり、イワフネの傍まで来るとガバッと頭を下げてイワフネに頼み込む。
「イワフネさん!大月さんの治療にご協力お願い出来ませんか?」
いきなり頼み込まれたイワフネは、隣の西野や春日、東山を見回すと、同じ様に黙って頭を下げてくる。
「……分かりました。
大月さんには尖山で出会って以来、沢山お世話になってきました。彼の治療に協力させていただきます」
少しだけ、肩の力を抜くように息を吐いたイワフネは、苦笑しつつ要請を了承するのだった。
こうして大月の治療とリハビリにマルス・アカデミーが全面支援することが決まり、大月をマルス・アカデミー尖山基地へ搬送する手筈が整えられる事となったのである。
♰ ♰ ♰
西野は待合室に戻ると、ミーコに大月を尖山基地で治療する事を伝えた。
「その方が良いと私も思う。ひかりも勿論来るんだよね?」
ひかりの腰に抱き着いて見上げながら、ミーコが尋ねる。
「そうよ。私が責任もって面倒見ます!」
こぶしを握り締め、鼻息荒く宣言する西野ひかりだった。
大月の搬送にはマルス・アカデミーからの申し出により、屋上で待機していたアダムスキー型連絡艇が使われる事となった。
集中治療室から生命維持装置を付けたまま、大月を乗せたストレッチャーは病院の屋上にエレベーターで移動してアダムスキー型連絡艇に近付くと、連絡艇下部からストレッチャーより僅かに大き目な医療用カプセルが現れて大月をストレッチャーごと覆うと連絡艇内部へ収容する。
大月の収容を見届けた西野は、岬教授や自衛隊中央病院の医師・看護婦達にお礼を言った後、見送るためについて来た東山や春日達の方を向く。
「西野。大月さんの事頼むぞ」
東山が西野に大月の看病を頼む。
「仕事は此方で回しておきますね!」
春日が火星開発関連の業務を引き受けると申し出る。
「ひかり。後の事は岩崎さんと何とかするから、気にせんと彼の面倒みるんやで」
仁志野社長がひかりを励ます。
ひと通り挨拶を終えた西野がイワフネと共にアダムスキー型連絡艇に乗り込もうとすると、見送る人の中から岬が歩み出てイワフネを呼び止める。
「イワフネさん。
地球側の医療関係者として、今回の治療には大変興味が有ります。同行させていただいてもよろしいでしょうか?」
岬教授がイワフネに尋ねる。
「分かりました。
マルス・アカデミーでは地球人類の治療経験が少ないですから、同行して頂けると助かります」
イワフネが快諾する。
「そうと決まればっ!
連絡艇の中でも大月さんの治療が出来るように準備してきます!」
イワフネと西野に頭を下げると、二人よりも先に白衣をはためかせて連絡艇に駆け込む岬。
現金な岬の行動に西野とイワフネ、見送りに来ていた一団は苦笑するのだった。
♰ ♰ ♰
やがてイワフネ、西野、ミーコ、飛び入り参加の岬渚紗を乗せたアダムスキー型連絡艇はフワリと病院屋上から浮き上がると、一気に高度10000mまで垂直上昇すると、北上して尖山基地へ向かうのだった。
病院関係者から、大月が更なる治療のために移送される事を聞き出したマスコミ各社は病院敷地入口でカメラの砲列を敷いて盛大に待ち構えていたが、屋上から垂直上昇してはるか空の彼方へ消えたアダムスキー型円盤に裏をかかれた形となった。
尖山基地に向かう間岬教授は、イワフネ相手にマルス人治療用培養カプセルを地球人類治療用に成分調整する為の打ち合わせを申し出て、大月の治療データ入力に没頭した。
尖山基地に到着して1時間後、大月はアダムスキー型連絡挺の中で岬が成分調整していた地球人類治療用カプセルに収容された。
治療用カプセル内は身体から染み出たリンパ液や老廃物、汚物を分解し、皮膚や焼けた内蔵器官を再生させる溶液に満たされており、呼吸器官が再生治療されると肺が直接溶液を取り込んで酸素吸収が出来る様になる。
現代医学では動物実験でさえ、倫理的に問題ありと物議を醸していた新技術であり、事前テスト無しで地球人類用に調整した岬の能力は天才的と言える。
こうして大月の治療が始まり、岬とイワフネ、尖山で待機していたゼイエス、アマトハも加わって大月の失われた皮膚を再生させるべく日夜奮闘する事になる。
岬とマルス・アカデミーによる、人類初の治療カプセルを用いた治療データは、尖山基地管理人工知能『タカミムスビ』から自衛隊中央病院に毎日転送された。
治療データを元に、東京市ヶ谷の防衛省敷地内に誕生した"火生研"所属医師団により地球人にも取扱い可能な『溶液治療カプセル』が試験開発され、澁澤総理、岩崎官房長官指示により、火星転移特別措置法を適用した即時使用認可が厚生労働省から下されるのだった。
この『溶液治療カプセル』は、火星転移直後に国際線旅客機内で被曝した多数の乗員乗客や空自偵察機の高瀬少佐、巨大ワームに襲撃された米露連合艦隊負傷者の治療にあたる医師や看護士の負担を軽減させ、何よりも患者の苦痛も和らげた事で治療に大いに役立った。
ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m
【このお話の登場人物】
・大月 満 = 総合商社角紅社員。内閣官房室に出向中。
・西野 ひかり= 総合商社角紅社員。社長の孫娘。
・ミーコ=マルス・アカデミー自律進化型人工知能。日本列島生態環境保護育成プログラム電子思念体。電子回路内、クローン体双方を自由に行き来する事が出来る。
・東山 龍太郎=20代後半。西野の大学同期。首相補佐官。
・春日 洋一= 20代前半。総合商社角紅若手社員。魚捌きは上手い。
・岬 渚沙=東南海大学海洋学部教授。
・イワフネ=マルス人。第3惑星調査隊長。
・仁志野 清嗣=総合商社角紅社長。西野ひかりの祖父。
・岩崎 正宗=日本国内閣官房長官。




