選択の果て
2022年1月10日午後5時【NHKニュース】
NHK開局時代から受け継がれて来た、冷静な口調の男性アナウンサーが臨時ニュースを伝えていた。
『……防衛省によりますと、昨日午後10時頃、北海道北東沖250kmの北太平洋で極東アメリカ合衆国、極東ロシア連邦の連合艦隊が火星巨大生物の襲撃を受けた模様です』
『極東米軍関係者によりますと、襲撃により多数の艦船が大破、沈没し、多くの犠牲者が出ているとの事です』
『また現地からの未確認情報ですが、日本人ガイドも犠牲者に含まれているとの事です。……この件に関して、間もなく岩崎内閣官房長官による緊急記者会見が行われる模様です』
『スタジオには、海洋生物の生態に詳しい東南海大学海洋学部の岬 渚沙教授にお越しいただいています』
岬は市ヶ谷防衛省敷地内に設立された火星生物研究所で巨大ワーム研究中、首相補佐官の東山に頼み込まれて急遽出演する運びとなった為、サンダル履きでよれよれのワイシャツの上に白衣を纏い、背中まで伸びた艶やかな髪も素っ気無く束ねただけだけで化粧っ気の欠片も無いが、本人は気にする事無く、カメラを前に臆せず平然とデスクに座ると、市ヶ谷から持ち込んだ資料を食い入るように読み耽っていた。
『……岬教授。この火星巨大生物とは、具体的に何を指すのでしょうか?』
資料を熟読中の岬に、キャスターが遠慮がちに声を掛ける。
キャスターから質問された岬はキャスターを見る事無く資料に目を落としたまま、淡々と説明を始める。
「……そうですね。
マルス人は火星が地球型環境になる以前からの生物として、幾つかの種類を挙げていました。
火星の『極めて過酷な』環境を生き延びていた巨大ワームやサソリモドキ、巨大トカゲ等を指しています。この中で、最近確認された事象ですが、海中でも短時間活動可能な生物を考えると、恐らく巨大ワームでしょう」
すらすらと聞き慣れない生物名を上げていく岬。
「マルス・アカデミーが列島各国の学術関係者に最近公開した情報によると、巨大ワームの全長は200m程度。鋼の様に強靭な筋肉質を持つ生物です。幅5mに達する口を持ち、周囲の生物を根こそぎ吸い込んで強酸性の胃液で消化します」
『……』
男性キャスターが引き攣った顔で岬の説明を聞いていたが、急にイヤホンに手をやると、岬に詫びる様に左手で説明を制止する仕草をする。
「―――岬教授のお話の途中ですが、首相官邸の記者会見場に岩崎官房長官が姿を見せました。間もなく会見が始まるものと見られます」
キャスターと岬を映していた画面が、足早に記者会見場へ入室する岩崎官房長官に切り替わる。
壇上の日の丸に一礼してから登壇した岩崎官房長官は、やや早口でプレスリリースを読み上げ始めた。
『昨晩午後9時20分頃、北海道稚内市北東沖250kmの北太平洋―――日本列島外である、火星シレーヌス海上に於いて、火星アルテミュア大陸上陸を目指していた極東アメリカ合衆国、極東ロシア連邦の連合艦隊が火星原住生物である巨大ワーム群に襲われ、多数の潜水艦、巡洋艦が沈没し、その他の艦船も甚大な損害を受けた為、上陸作戦を断念したとの連絡が両国より政府にありました。
この襲撃により、両国艦船の乗組員や海兵隊員に多くの犠牲者が出ているとの報告を受けております。
現在、海上・航空自衛隊及び海上保安庁から救援可能な艦船、航空機を現地に派遣して救援に当たっているところであります』
プレスリリースを一気に読み上げた岩崎は、一旦息をつくと今度ははっきりと、聴きやすい早さで原稿の続きを読み始めた。
『尚、両国の上陸作戦に我が国の民間人1名が現地案内役として同行していましたが、巨大ワームの襲撃を受けました。
民間人は駆け付けた自衛隊に救助され、世田谷区の自衛隊中央病院へ速やかに搬送されましたが、意識不明の重体です』
『我が国の民間人は、極東アメリカ合衆国、極東ロシア連邦の「強い要請」を受けて同行しておりました。
政府は本件について、直ちに澁澤総理大臣からホットラインにて極東アメリカ合衆国ミッチェル大統領、極東ロシア連邦パノフ大統領に厳重な抗議をいたしました』
『民間人は現在、自衛隊中央病院の集中治療室に於いて医師団による治療を受けておりますが、皮膚の大部分を喪い、呼吸・免疫機能が低下して大変危険な状態です。……直ちに代用皮膚を手当てしないと、火星原住生物由来による未知の細菌や微生物が体内に侵入し、生命の危機に晒されてしまう恐れがあるという事です。
自衛隊中央病院で備蓄されていた代用皮膚の在庫が、間もなく底を尽くとの報告も受けております……どうか、全国医療機関に於かれましては、一刻も早い代用皮膚の提供をこの場を借りてお願いするものであります』
記者会見を取り仕切っていた東山補佐官が記者達に質問を促すまで、岩崎は頭を下げ続けた。
政府高官が会見で頭を下げて全国の病院に支援を求めた異例な光景に、記者達は唖然としてしばらく声も出せなかった。
日頃から政府の失態や失言を追及して謝罪や辞任を強要してきた記者達の目には、重体の民間人に心から深く謝罪する岩崎官房長官に、水を差すような質問や揚げ足取りをする事を思わず躊躇わせたのである。
やがて我に返った記者達から『昨晩、市ヶ谷で起きた戦闘と今回の巨大ワーム襲撃の関連は?』『損傷した艦艇からの放射能漏れは?』『日本本土に火星原住生物が襲撃するのですか!?』『核兵器は使用されたのですか?』等々怒涛の質問が始まり会見場が騒然となっていくと、画面が渋谷のNHKスタジオに戻った。
『岬教授。今の会見で岩崎官房長官が述べた民間人の容態が深刻という事ですが、ワームに襲われて皮膚を喪う状況とは、どの様なものだと推察されますか?』
キャスターが質問した。
「まず、その民間人は直径5mに達する巨大ワームの口から体内に吸い込まれたのでしょう」
岬が顔を顰め、血の気の引いた表情で説明する。
「巨大ワームの消化器官には極めて強い胃酸が有り、それで身体を『丸ごと焼いた』のだと思われます。
負傷者の容態は、想定した以上に深刻なものだと判断せざるを得ません」
岬はそう答えると唐突に席から立ち上がる。
「私の研究室でもマルス・アカデミーとの接触後、段階的技術承継を受けた代替皮膚技術の研究と、火星原住生物の研究を進めてきました。……これから負傷者の為に代替皮膚提供をするので戻りますね。失礼っ!」
カメラの方を向いてピースポーズを決めた岬は白衣を翻すと、資料を抱え込みながらパタパタとサンダルの音を響かせてカメラの前を横切って画面から消える。
突然の退席で呆気に取られたキャスターとディレクターを映していた画面は、取り繕う様に世田谷区の自衛隊中央病院前に切り変わると、既に待機していたアンカーが、民間人の容態と治療内容について、岩崎官房長官の会見内容を引用して伝え始めるのだった。
岬が退席するまでの一部始終をテレビやネットで視ていた日本列島各国の医療関係者は、自衛隊中央病院に代用代替皮膚提供と専門医師派遣の申し出を次々と行い始めるのだった。
岩崎官房長官から医療対応を一任された東山首相補佐官は、大月の治療を行う医師、代替皮膚や複合型皮膚の生成を行う医師、火星原住生物由来の細菌感染症を防ぐ医師と3つのグループに分けて24時間態勢で大月の治療に当たるよう組織した。
東山が組織した専門医集団は大月の治療にあたった他、横須賀軍港と晴海ふ頭へ派遣されて負傷した極東米露艦隊乗組員の治療も行い、彼らを治療した貴重なデータは列島各国医療機関へ即座に伝えられ、蓄積された。
防衛省自衛隊と国交省海上保安庁は、巨大ワーム群がシレーヌス海から南下して日本列島に上陸する事を警戒し、北海道近海から東北地方の日本海北部側、東北太平洋側において、漁船や貨物船等 民間船舶の航行を当面の間禁止とした。
東山首相補佐官は大月の容態に関し、岩崎官房長官を通じて澁澤総理大臣に連日報告を続けた。
大月が意識を取り戻したのは、巨大ワーム襲撃から約2週間後だった。
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2020年1月25日午前7時【東京都 千代田区永田町 首相官邸 総理大臣執務室】
国営放送でありながら、対馬事変を経ても未だに批判的偏向姿勢を崩さない、空気の読めないNHK女性アナウンサーが、プロデューサーから渡されたばかりの原稿を懸命に元気よく読み上げていた。
『数週間に渡って行われた与野党合同タウンミーティングを終え、遅すぎる異星文明承継と慎重な火星新天地開拓を掲げる澁澤政権に対し、国民断罪による、裁きの鉄槌が下される歴史的な国民投票日が訪れたのです!』
「・・・・・・ここまで偏ると、いっそ清々しいですなぁ」
執務室で澁澤総理大臣と共に壁面テレビを視ながら、岩崎官房長官が呆れ顔で茶を啜りながら呟く。
NHKを始めとするマスコミ各社と台湾自治区で泳がせていた対馬事変残党の中国・朝鮮系在留外国人を刈り取る様、後白河国家公安委員長に指示する時期だと心のメモに留める岩崎だった。
「マルス・アカデミーからの即時技術承継を主張していた極東米露の火星上陸作戦が失敗した現在、身の丈に合った技術承継を求めたこちら側に分は有る」
決然とした表情で澁澤総理が言い切る。
「・・・・・・払った犠牲は大きかったですな」
岩崎が呟く。
「ああ。政治指導者として、いずれどこかで責任を取る事になるのだろうな・・・」
決然とした表情を緩め、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見る澁澤総理だった。
第三次世界大戦を発端とした日本列島火星転移と、火星原住生物である巨大ワーム襲撃という、日本国建国以来の異常事態を体験し続けている日本国民の関心は根強く、多くの国民が投票所や最寄りのコンビニや郵便局でオンライン投票を行い、投票率は正午の段階で数十年ぶりに70パーセントを超えるのだった。
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―――13時間後、午後8時1分【NHKニュース国民投票 開票 特別番組】
今朝方、明るく原稿を読み上げていた女性アナウンサーに代わり、伝統的な冷静さを保つ声音の男性アナウンサーがニュースを『伝え』始めた。
『全国各地の投票所と郵便局・コンビニエンスストアのオンライン投票システムを管轄する総務省選挙管理委員会の速報を集計した結果、火星文明承継方針について、段階的承継派が82%、火星開発計画推進支持が65%という結果になりました。
これは、澁澤政権の段階的技術承継を掲げる対異星文明外交と、慎重な火星開発方針を国民が認め、国家非常事態宣言以後の国家運営に、国民が一定の評価を与えた事を意味します』
『国家非常事態宣言を解除して各種統制を大幅に緩和したものの、国内自給率はカロリー換算で73%前後と、国民全員を養うには未だ至らず、政府備蓄米の減少傾向が政権運営の課題となりそうです。
政府・与党は列島各国と共同で火星原住生物の襲撃に備えると共に、新たな施策の取りまとめを―――』
火星転移後の国内政治基盤を固めたものの、澁澤達日本国政府首脳のやるべき事は多い。
ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m
【このお話の登場人物】
・岬 渚沙=東南海大学海洋学部教授。
・澁澤 太郎=日本国内閣総理大臣。
・岩崎 正宗=日本国内閣官房長官。温和。




