オアシス【前編】
――――――5年前。対馬事変終息から2ヶ月後の2021年4月【火星アルテミュア大陸中央部 タルシス山地北部】
赤い夜空の下、火星北極地方から流れる寒気と鉄さびの混じった砂風が吹きすさぶ荒野を、20名ほどの集団が足取りも重く彷徨っていた。
「例の補給ポイントはまだなのかね?」
歩みを止めた壮年男性が丸い岩場に寄りかかってずるずる座り込むと、先頭を行く劉大佐を恨めし気に見上げて尋ねる。
「"協力者"の渡してくれたメモに記された位置だと、あと10km以内と思われます。我々の現在位置が正確で有れば、ですが」
声をかけられた中国人民解放軍特務部の劉大佐は、足を止めて振り返るとむっつり答えた。
「鄭大使。火星地表をカバーするGPSなどまだ無いのです。極東ロシアの協力者から渡された旧ソ連時代の火星地図と方位磁石であたりを付けるしかありません」
劉大佐のすぐ後ろに続いていた副官の趙中尉も足を止めて、座り込む鄭中国大使に応える。
長崎県対馬市に於いて、在日中国・朝鮮半島出身外国人主導による『東アジア共和国』建国を目指した武装蜂起に失敗し、在日大陸系華僑に匿われていた対馬事変の関係者は、レーダーに捕捉されにくい小型木造船で山陰地方の海岸から夜中に脱出、海上保安庁や自衛隊の監視の目を潜り抜けてアルテミュア大陸中央部沿岸に上陸した。
関係者達は『東アジア共和国』武装蜂起直前に協力を申し出た極東ロシア連邦パノフ大統領から、秘かに渡されたメモに記載されていたロシア宇宙庁『火星補給拠点』ポイントを目指し、前人未到の荒野を彷徨っていたのだ。
だが、関係者の一人だった元KCIA(韓国中央情報局)幹部は、アルテミュア大陸上陸初日に砂浜に出現した巨大ワームに食われ、その後も内陸部奥深くへ進む一行は様々な火星原住生物と疲労に襲われ、一人また一人と同行者を喪っていった。
「火星の夜は冷える。今夜は此処で休まないか?」
鄭大使の声に大部分の同行者が無言で頷く。
劉大佐が暗視ゴーグルで周囲を見渡す。
一行が足を止めた場所は砂地でなく、やや周囲より窪んだ、大小の奇妙な丸い石が散らばる岩場だった。
「大使殿。日中は、帝国主義者達の偵察機が我々を見つけるかも知れません。夜の内に距離を稼いでおかないと。食料や水が尽きかけているのです」
劉大佐が反対する。
「しかしだね、大佐。蓄積された疲労は我々の心身を蝕んでいるのだ。目的地までもうすぐなのであろう?少しぐらい夜中に休んでもいいのではないかね?
人民共和国建国の父である偉大な毛沢東同志と同じ苦難の行軍ではあるが、時に休んで鋭気を養う事も、明日の共産主義革命を成し遂げる為には必要なのだよ、同志」
鄭大使に同調する様に座り込んだ大半の同行者は疲労の色濃く、荷物を地面に置いてぐったりとしていた。
「……仕方ありません。此処で3時間の小休止としましょう。私と趙中尉は念の為、付近を警戒してきます。くれぐれも、火を起こすのは止めてください。上陸直後の砂場で巨大ワームやオオトカゲに襲われた経験をお持ちの皆様ならお分かりだと思いますが」
周囲を見回すと、肩を竦めて休憩に同意する劉大佐。
「承知している。このまま静かに眠らせてもらうよ」
それだけ言うと、ぐったりと毛布にくるまって丸い岩場の陰で横になる鄭大使。
他の面々も座り込んだ場所で毛布にくるまると仮眠を取り始めるのだった。
一行が仮眠を取ったのを確認した劉大佐は、趙中尉と共に夜の荒野を進んで行く。
やがて、前方に高さ500m程の山が赤い夜空の下、行く手を遮る様に黒々と広がっているのが視界に入ってきた。
「山か……」
ため息をつく劉大佐に、地図を持った趙中尉が歩み寄る。
「大佐殿。あの山は地図によると、ウラニクス山です。目的地はその向こう側と思われます」
「……行くしかないのか。……待て。なんだ?この匂いは?」
ため息をつきかけた劉大佐だったが、不意に顔を上げると前方に目を凝らす。
「どうされたのですか、大佐殿?」
怪訝そうな顔の趙中尉。
「……水の匂いがする。微かに湿った土の匂いがしないか?」
目を瞑り、前方に顔を突き出して空気を吸いこむ劉大佐。
「まさか。……んん?……確かに湿った土の匂いに似ていますね。わき水でも出ているのでしょうか?」
半信半疑だった趙中尉も何かを嗅ぎつけた様で前方に目を凝らす。
「匂いは前から吹く風に乗って来ている。という事は、やはりあの山の向こう側か」
「行くしかないでしょう」
劉と趙は頷き合うと、前方の山へ歩みを進めるのだった。
♰ ♰ ♰
「……やはり腹が減っては眠るのもままならん」
空腹に耐えかねた鄭大使がむくりと起き上がり、背嚢の中からインスタントラーメンと水筒、小鍋、カセットコンロを取り出して足元に転がる丸い石を幾つか集め、即席の竃を組むとカセットコンロに点火する。
暗い荒野の中、やがて竃に置かれた小鍋はぐつぐつと煮えたぎり、鄭はインスタントラーメンと粉末スープを湯の中に投入すると、辺りに食欲を刺激する匂いが立ち込める。
鄭大使と同様に空腹でなかなか寝付けなかった者達も、中華スープの匂いに釣られる様に鄭に習い、地面に転がる丸い石を集めて火を焚き始める。
劉大佐が砂地での火気厳禁を言い渡した筈だったが、丸い岩石が散らばる岩場で有り、地中から巨大ワームが襲撃する事は有り得ないと全員が思っていた為、念の為の用心も空腹には勝てなかった。
「そろそろ3分か……ん?」
鍋を覗き込もうと椅子代わりにしていた丸い岩石から身を乗り出していた鄭大使が自分の腰をみると、丸い岩石が僅かに振動していた。
「熱に弱い岩……なのか?」
岩から腰を上げて足元の岩を確認しようと身を屈めた途端、中心から半分に割れた岩が突然跳ね上がると鄭の首から上をすっぽりと包み込んだ。
「もがっ!!?」
突然視界が遮られて頭が重くなった鄭は抗おうと両手で岩を掴んだが、同時に目鼻と口に触手の様な物が押し入り、首元に刃がねじ込まれた様な感触を覚えたところで意識が断絶した。
突然立ちあがった鄭大使が、足元から飛び上がった岩に首から上を喰い千切られたのを目の当たりにした周囲の者は、悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、自らも足元で竃や椅子としていた岩石達に身体を喰らいつかれて地面に倒れ込むと生きながら食われていく。
運良く最初の岩石を躱した者が灯りを照らすべく信号弾を打ち上げると、周囲の丸い岩石が次々にギシギシと音を立ててダンゴムシの様な節足動物に変わって一行の休憩場所に押し寄せていく姿が照らし出された。
恐慌状態に陥った者がAK47カラシニコフ自動小銃やマカロフ自動拳銃をダンゴムシに乱射するが、硬い殻に火花を散らして弾を跳ね返すだけで、直ぐにダンゴムシの群れの中に埋没して喰われていった。
休憩場所に居た全員がダンゴムシの群れに食べ尽くされるまで、時間はさほどかからなかった。
♰ ♰ ♰
休憩する一行から離れて前方の偵察に出ていた劉大佐と趙中尉が山を登り切ると、明るい青い水をたたえたカルデラ湖を発見した。
土の湿った匂いは、明らかに前方のカルデラ湖周辺から風に乗っていた。
「やっと、着いたのか……」
感慨深げに呟く劉大佐。隣で趙中尉が惚けた様に湖を眺めている。
大量に水をたたえた湖に二人が見とれていると、突如、背後から銃声が響く。
「なっ!?」
慌てて趙中尉と共に休憩場所の岩場へ引き返した劉大佐だったが、休憩場所だった岩場近くまで辿り着いた頃には、巨大なダンゴムシの集団がびっしりと岩場を埋め尽くしていた。
「あの岩石は火星原住生物だったのか……」
呆然と立ち尽くす劉大佐。
「大佐殿。先ずはここから離れましょう」
趙中尉が、立ち尽くしていた劉を引っ張ってカルデラ湖へと戻っていく。
茫然自失の劉大佐だったが、カルデラ湖の傍で休憩した事で我を取り戻した。
気を取り直して趙中尉と共に周囲を探索したところ、湖の畔に佇んでいた1基の砂に塗れた古い着陸船を発見した。その着陸船には赤地に黄色の星、鎚と鎌をシンボルとするソヴィエト国章が印されていた。
そして、もっとも驚くべき事に着陸船は太陽電池と小型原子炉を併用して未だに起動しており、湖水を汲み上げて酸素と水素を排出していた。着陸船の脚部には緑色のコケが繁茂していた。
「……これで生き延びる事が出来る」
劉はこの地で生きて行く事を決意すると、趙中尉と共に着陸船の内部を調べて通信機を見つけ出すと、遥か東方の同志と協力者に向けて暗号通信を送り始めるのだった。
『我、オアシスに到着セリ』
通信を送った10か月後、日本列島各国連合軍がアルテミュア大陸東部に上陸した際、故障を装った極東ロシア連邦の大型輸送機がウラニクス山上空に飛来し、支援物資と車両、大陸系華僑が手配した傭兵部隊を投下していった。
それがこの街の始まりだった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m
【このお話の登場人物】
・劉=未確認都市の市長。元中華人民共和国人民解放軍特務部大佐。
・趙=劉の副官であり、警備隊隊長。元中華人民共和国人民解放軍特務部中尉。
・鄭=中華人民共和国駐日大使。




