慟哭
2026年(令和8年)7月15日【地球中東 旧トルコ共和国中部 上空50,000フィート】
ベンジャミン・ニタニエフ首相は、眼下に広がる荒涼とした大地の一角から突如として濛々と黒煙が噴き上がる様を戦慄の眼差しで見つめていた。
ニタニエフ首相の背後にモサド長官が近づいて報告する。
「首相閣下、地上に残した監視部隊からの報告によりますと、アララト山で大規模噴火が起こりました」
「……分かっている。あれだな?」
ニタニエフが眼下に広がる景色の一角を指差した。
先ほど大地の一角から噴き上がった噴煙は、瞬く間に周囲へ拡がりながらニタニエフが乗っている最後のイスラエル国民を乗せたマルス・アカデミー・基幹母艦と同じ高さにまで到達しようとしていた。
「頂上の天文台に派遣していた部隊は?」
「タカマガハラ司令部からの警告を受けた直後に脱出させており、無事です。
地上に残した連絡部隊は少数の特殊部隊で、カッパドキア地下首都から地上部分各地に設置された観測機器を操作しています。当面は噴火の被害を受ける事はないでしょう」
眼下に噴煙は視界の三分の一近くにまで広がり、時折鮮やかな赤い火柱が噴煙の中心部から立ち昇る度に雷光が周囲の黒煙の中で閃く。
「かつて我々の祖先はモーゼに導かれてエジプトを脱出する際に、海を割る奇跡を起こした。そしてエルサレムで新たな繁栄の礎を築きあげた。
今の我々は空から降臨された神の使者に導かれて灰色の空を割って脱出し、神が造りたもうた東方の地へ向かおうとしている……」
外の景色から視線を外すことなくニタニエフの呟きは続く。
「我々は史上二回目の民族大脱出を経験する"選ばれし民"なのだ!
約束の地で我々は今度こそ、神々の代理人としてこの世界を救済して統べるのだ!」
恍惚とした表情で呟くニタニエフ。
マルス・アカデミー・基幹母艦の巨大なブリッジ中央にある艦長席に座るリアは、眼下のブリッジ片隅から聞こえてきたニタニエフの呟きを耳にすると僅かに眉を顰めて呟く。
「なんという異様な倫理観なのでしょう。……いいえ、これは地球人類が自らのアイデンティティーを確立する過程なのかしら。実に興味深い」
「リア隊長。インド洋中心部とアフリカ大陸東部沿岸で巨大地震発生!周囲の海面が変動しています!」
地球観測システムのマルス人オペレーターが報告する。
「結の予測通りだわ。惑星規模の地殻メカニズム変動をこの目で確かめる事になるとはね……」
縦長の瞳孔を細めながら、リアは避難船団の進路変更を指示する。
「船団先頭に通達、針路そのままで高度変更。シールド二重展開!一旦大気圏を出て衛星軌道まで上昇してタカマガハラへ向かうわよ。地上観測システムは、磁場測定値の変動に注意して!」
巨大なマルス・アカデミー・基幹母艦船団は、緑色のシールドを強く輝かせながらゆっくりと上昇を続けて灰色の大気圏を抜けていく。
♰ ♰ ♰
何も無い白い空間をひたすら前へ進む満の前に、小さな木製の扉が現れた。
満が扉のノブを握ると静かに扉が開き、天井から床まで何も映さないテレビ画面にびっしりと覆われた空間の中央にちんまりした小さい人影がこちら側に背を向けて体育座りをしていた。
満はゆっくりと部屋の中心まで歩いて小さな背中に近づくとしゃがみ込んで、瑠奈の華奢な両肩にそっと触れる。
瑠奈はそれでも身動き一つしていなかったが、満は瑠奈のつま先に在るテレビ画面が、一つだけ点灯している事に気付く。
そのテレビ画面から音声は聞こえてこないが、モノクロ画面に映っている人物は楽しそうに笑っている様だった。
満は、瑠奈の両肩に沿えた手の指先に少しだけ力を込めると、静かに声をかけた。
「瑠奈。帰ろうか……」
『……うん帰るっス』
次の瞬間、部屋中にある全ての画面が眩いばかりの白光を放つと瑠奈と満を包みこんだ。
眼が眩んで満が意識を失う寸前、瑠奈の慟哭が聴こえてきた。
瑠奈の慟哭は少しの間だったが、満は心の奥深くに杭を打ち込まれたような沈痛な気持ちになるのだった。
♰ ♰ ♰
――――――【火星日本列島 東京都千代田区秋葉原 自衛隊特殊電子戦闘団 訓練所】
「瑠奈が部屋から出てきたと結から連絡が来たわ」
フルダイブマシンの有る部屋に入ってきた美衣子が、満が横たわるベッドに寄り添っていたひかりに伝える。
「あらまあ!結ちゃんが月面から迎えに行ってくれたのかしら?」
「瑠奈は大事な妹。妹のピンチに駆け付ける事を優先するわ」
驚くひかりに応える美衣子。
「という事は、お父さんはちゃんと瑠奈ちゃんに会えたのですねぇ……」
特殊電子戦闘団のフルダイブ訓練機械(ゲーム機とも言う)にアクセスしているのを忘れたかのようにスヤスヤと寝息を立てて完全に寝入る満の額を慈しむようになでるひかり。
「瑠奈に会いたいとお父さんが言ってきた時はどうしたものかと思ったけど、ネットワーク回線で瑠奈に通じようと考えるとは流石お父さん」
「接し方がちょっとばかり違うけど、それでも瑠奈は可愛い大月家の娘ですからね。美衣子ちゃんもですよ」
”さすおと”と感心する美衣子に応えるひかり。
人類反攻作戦開始以来、ミツル商事が無償で全面的に関与する補給関連部署は多忙を極めており、満社長は地球連合防衛軍司令部に詰めたまま、マルス・アカデミー・シャトルやコウノトリ改造型輸送艦の手配に日夜追われていた。
「瑠奈は直ぐに気を失って結の連絡艇に収容されたわ。衰弱しているらしいからこのまま火星に戻るそうよ」
「仕方ないわよ。後の事は東山君に任せましょう」
そう言うとひかりは満の額を優しく撫でる。
「よくやりましたね、あなた。瑠奈と結が戻ったら、久しぶりに家族団欒をしましょう……」
ひかりが小さく呟いた。
多くの人の犠牲と傷ついた人々を生みだした戦争は、人工日本列島『タカマガハラ』の地球極東着床によって重大な転換点を迎えつつあった。




