ヒトとして【後編】
2026年(令和8年)6月1日【神奈川県横浜市神奈川区 NEWイワフネハウス 203号室】
岬渚紗が琴乃羽美鶴の私物を整理する為に、彼女の部屋を訪れていた。
溶液や植物化した人々のうちマルス・アカデミー・謹製グッズ”聴き耳君”で自我を取り戻して意思疎通の出来る者が一部出てきたが、意識を喪失したまま物言わぬ液体や植物と化した人々は未だ27万人余に上る。
日本国も月面ユニオンシティ駐留基地の自衛隊員300名と、アルテミュア大陸人類都市ボレアリフと月面都市ユニオンシティで巻き込まれたビジネスマンやマスコミ関係者など200人余がヒトの形を失って溶解していた。
列島各国政府はヒトの形を失った国民を丁重に保護する一方、ヒトへの治癒が望めない人々に対して合同慰労祭を取り行う事になった。
この政府の対応に、肉親や恋人が溶解して悲しみに暮れる人々は、形を変えても尚生きている者に対する冒とくだとして猛反発した。
一方で”けじめをつけるべき”との世論は日増しに強まり、列島各国政府は数か月後に迫った人類反攻作戦を前に人類の結束を強めるため、世論の安定を図ることにしたのである。
東京代々木にある新日本武道館で合同慰労祭を行うにあたり、人々は変わり果てた家族や恋人、友人縁の品を持ち寄って、武道館ステージ一杯に整然と並べられた数万の溶液カプセルや植物プランターにお供えをするように置くと、一刻も早く心と身体が取り戻せるよう手を合わせて心から願うのだった。
岬渚紗も大月夫妻からの依頼で、琴乃羽美鶴が愛用していた素敵な男性スケッチが多く含まれたコンテンツの数々を持ち込もうとしたが、余りの多さに受付で大半が断られる事となり、別途マルス・アンドロイド・ツルハシ3号に担がせて倉庫送りとなっていた。
それでも、最後まで琴乃羽が悶絶するほど愛用(他者視点)していた『恋愛無双』ゲームソフトやBL本コレクションだけは持ち込むことが出来た。
琴乃羽の溶液が入ったカプセルの前にそれら「コンテンツ」を置くと、岬は手を合わせて琴乃羽が心安らかに過ごせるように祈った。
「恋愛無双」のソフトと最新刊B〇(エル)本が置かれたカプセルの中では、溶液が微かにプルプルと震えている様に見えた。
『それではこれより、電磁波攻撃の被害を受けてしまわれた方々の安寧を祈る集いを開催いたします』
司会を務めるNHKアナウンサーが開催を宣言した。
澁澤総理大臣による慰めと労いの言葉の後に、皇族の方々、列島各国首脳のスピーチが続いた。
ステージ壇上の壁際では仏教、キリスト教、イスラム教等の宗教団体が其々信じる神の名の下、無病息災と癒しの祝福を唱えていた。
「続きまして、被害者友人代表としてミツル商事 海洋生物学博士の岬渚紗さん。
よろしくお願いします」
黒いワンピースを着た岬が琴乃羽の愛読していたBL本を手に、楚々と壇上へ上がる。
日本列島各国へ生中継しているため、テレビカメラも岬をズームアップで映し出す。
「私の親しい同僚だった琴乃羽美鶴さんは、この異常現象を解明しようとして自らヒトの姿を喪いました。
あの出来事が起こる直前、彼女は私にこう言いました。
『人間、受けか攻めよ』と。
……私はその時、彼女の魂の叫びを確かに聴きました。
……彼女が愛読していた本から一説を引用します」
岬がゆっくりと琴乃羽の聖書だったBL本を壇上で大きく掲げると大声で朗読を始めた。
「……バンコランはこう言った『俺の物になれ』。
バンコランに見つめられた王子は、頬を赤く染めながらゆっくり彼に近づくと、彼の厚い胸板へ飛び込んで――――――」
”男同士”による大胆なラブシーンが描写された一節を、大きな声で熱心に読み上げる岬は音読に集中するあまり、内容の事など考えていない。
最新音響設備によって新日本武道館の隅々まで岬の声は届いたが、ずらりと並んだ”カプセルの中の者達”にまで、BL本の音読が響いてしまっている。
琴乃羽美鶴を含む多数の溶液が入ったカプセルが小刻みにプルプルと振動すると、中の溶液が岬の朗読が進むにつれて膨張し、激しく蠢きだしたが黙とうを奉げる人々はまだ異常に気付いていない。
次の瞬間、カプセルから眩い緑色の光柱の列が天井まで立ち昇ると、驚嘆した参列者達のどよめきが新武道館内に響き渡る。
やがて光が収まると、そこには全裸男女に混じった琴乃羽美鶴が顔を手で覆って立ち尽くしていた。
「それ以上読まないで~っ!その巻はまだ買ったばかりで読んでいないから!ネタバレ駄目~っ!」
肩を震わせると悲壮な表情で壇上の岬に向かって叫ぶ琴乃羽美鶴。
ある意味衝撃的な場面を放送し続けるテレビカメラ。
「……琴乃羽さん。突っ込むのそこ!?」「うぐぅ……」
参列していたひかりが思わず突っ込み、隣では満が身内の醜態に頭を抱えている。
全裸の琴乃羽がわんわんと泣き叫びながら壇上の岬へ詰め寄ろうとしたが、我に返った女性警護官に制止されて新武道館の外へ連れ出されると、そのまま自衛隊救急車で自衛隊病院へ運び込まれた。
琴乃羽を含む多数の男女が溶液からヒトへ実体化した事で、新武道館内は騒然とした状況になり式典は中止された。
テレビ中継は合同慰労会場が突如発光した段階で、視聴者の視界を守る為に自動的にカメラが各局スタジオへ切り替わっていた。
琴乃羽以外でヒトに戻った男女達は、頭を抱えて悶絶している琴乃羽と同じ嗜みを持つ者が大半だったが、若干名が琴乃羽同様ツヤツヤとした清々しい顔の者も居た。
公然わいせつ罪の疑いで全員拘束を考えた警察は、被害者の容態を優先した澁澤首相の超法規的指示で全裸男女の集団は、逮捕を免れ速やかに救急車で自衛隊病院へ搬送された。
NIIDで精密検査を受けた琴乃羽や大勢の男女は、DNA解析等を経て、完全にヒトの姿へ戻った事が確認され、医師団は液体化された男女の意識が極度の緊張や興奮状態に陥った事が原因でヒトへ戻る自我が確立されたと診断した。
『本日、多くの人々が絶望的状況の中からヒトとして戻ることが出来ました。
私達にはまだ何か出来る事があるのです。皆さん、希望を捨てず前へ進みましょう』
合同慰労式典が中止された直後、首相官邸へ戻った澁澤首相は待ち受けていた記者団に対し、国民向けのメッセージを発表するのだった。
この出来事を切っ掛けとして溶液化、植物化した人に対し、ヒト時代に強い思い入れのあった物や人に対面させる事で、琴乃羽達の時と同じように”激しい反応”を起こしてヒトへ戻る事例が相次いだ。
溶解した琴乃羽美鶴が岬のBL本朗読でヒトへの回復を遂げたことから、この治療法はBL本に登場するとある登場人物の名を取って『バンコラン療法』と呼ばれた。
岬渚紗は後年、人類生存圏ノーベル医学賞とイグ・ノーベル賞を同時に受賞した歴史上初の日本人となった。
授賞式に先立って、幕張の受賞会場で記念講演した岬が再びBL本最新刊を大声で朗読した際、同伴した琴乃羽が嬉しさの余り再び溶解してしまい、慌てて美衣子達が回収したのは別の黒歴史である。
♰ ♰ ♰
――――――【神奈川県横浜市神奈川区 NEWイワフネハウス地下 美衣子研究室】
「溶液化しても環境に適応してしまう人類には無限の可能性を感じるわ」
久し振りにひかり謹製オリジナルプリンを堪能しながら呟く美衣子。
『姉様。思念力で溶液からヒトに戻れたのなら、再び溶液になることも、そしてまたヒトとして戻る事も可能では?』
月面都市ユニオンシティで地球連合防衛軍反攻作戦準備の合間に試作レーションのプリンを食べる結がホログラム映像越しの姉へ尋ねる。
「……木星スライムも同じことを指摘していたわ。琴乃羽達はある意味、人類の形態から進化しつつある、と言うことね」
さらりと言い切る美衣子だった。




