ヒトとして【前編】
――――――【NEWイワフネハウス地下 】
琴乃羽 美鶴の意識が記憶の底から浮上した。
あの映像をフラッシュバックで視てからどれくらいが経ったのだろう?
……あれれ?
……美衣子ちゃんが私を覗き込んでいるわね。
……ひかりさんも、私に何か呼び掛けているみたい。
……大丈夫、と口にしようとしたが、声が出せない。
……手を振ってゼスチュアで伝えようと思ったが、身体に力が入らない。
……しかし、空腹感や喉が渇いた感覚はない。
……全てがぼんやりとしていて、温かな湯船の中を漂っているかの様で心地良い。
……この感覚に慣れると抜け出せなくなる予感がするが、それも悪くは無い、と琴乃羽は思い始めていた。
――――――不意に身体が掬われる様な感覚に気付いていたが、彼女の意識は微睡みの域を抜け出す事はなかった。
赤みがかった、黄色い溶液となった彼女は、マルス・アンドロイドのツルハシが持つグラスファイバー製容器に収められた事にさえ、気づく事は無かった。
♰ ♰ ♰
――――――【NEWイワフネハウス地下 美衣子研究室】
ツルハシが手にしているグラスファイバー製容器の中で、赤みがかった黄色い溶液がゆらゆらと蠢いている。
「思ったよりも、これは難しいわね」
誰に言うともなく、美衣子がむーんと呟く。
「この状態に危機感を抱いてもらわない事には、人には戻れないというのに……」
フラスコの中で揺れる琴乃羽は、何故かこの状況を楽しんでいるように見えた。
『姉さま。月面都市の住人は、植物から戻れないのかしら?』
月面に派遣されていた『そうりゅう』から、リアルタイム星間通信で植物・溶液化人類の分析をしていた結が訊く。
『そうりゅう』は、月面に向かう途中の航路各所にマルス製防諜機能をてんこ盛りした通信衛星を新しく設置しており、火星との通信状況はリアルタイム双方向通話が出来るまで劇的に改善した。
「月面都市のヒトは溶液から植物へ"進化"してしまったわ。液体の方がヒトに戻り易かったのだけど……」
どうしたものかと困り顔の美衣子が答える。
『……そう。植物化したらヒトの意識は残るのかしら?意思の存在確認が必要だと思うわ姉様』
「そうね。先ずは、液体や植物化したヒトとの意思疎通を図る手段が要るわね」
「液体にマイクを突っ込んでもしょうがないわね……」
琴乃羽の入った容器をバーテンダーよろしくマドラーで突っついたり、シェイクしていたマルス・アンドロイドのツルハシ3号を眺めながら呟く美衣子。
液状化した琴乃羽の危機を感じた美衣子は、無言でツルハシの背後に歩み寄ると指先から電撃を放ってお仕置きをする。
プスプスと薄い煙をあげ、床に頽れて痙攣するツルハシをしばらく見つめていた美衣子は不意に「これだ!」と叫ぶ。
「ツルハシ!お仕事よ!」
「電撃ヲ浴ビルオ仕事デスカ?」
電撃で煤けたツルハシのセラミックボディを、ぺちぺちと嬉し気に叩く美衣子に首を傾げるツルハシ3号。
「取りあえず木星作業船団経由で木星スライムとコンタクトして頂戴!」
美衣子が命じるのだった。
♰ ♰ ♰
2026年(令和8年)2月15日【東京都世田谷区 陸上自衛隊 三宿駐屯地内 NIID=ニード(国立感染症研究センター)研究所】
この研究所地下に在る特殊ラボは気圧操作されており、室内の空気が外部へ漏れる事は無い。
此処には月面都市ユニオンシティの植物化人類、人類都市ボレアリフの溶液化人類、NEWイワフネハウス地下で溶解した琴乃羽がサンプルとして保管されていた。
「いろいろと試していたのだけど、分かった事があるわ」
琴乃羽溶解以降、NEWイワフネハウス地下の研究室に籠っていた美衣子はNIIDに到着するなり開口一番に切り出した。
「取り敢えず、このサンプルたちは”まだ”ヒトよ」
美衣子が宣言した。
「マジか!」
目を見開いて琴乃羽の入った溶液試験管を見詰める満。
「生きているのですか!?」
琴乃羽の同僚である、岬渚紗が驚きを露わにして訊く。
「そうね。琴乃羽の溶液から生体電気と電流が観測されたけど、電流の特徴がヒトと同じだったの。つまり、生きていると言えるわ」
美衣子が答えた。
「しかし、このような形態での意思疎通は可能でしょうか?」
立ち会いの為、地球へ赴いたロイド提督に代わって火星に残った英国連邦極東軍グリナート大佐が美衣子に質問する。
「専用機器さえ揃えば可能よ。其方は今、ミツル商事医療部門が鋭意準備中。期待して頂戴」
美衣子が胸を張る。
「……ふむ。それはなにより。喜ばしい事ですな」
美衣子の答えを聴いてグリナート大佐が胸を撫で下ろす。
「ミス・ミーコ。彼らをヒトへ戻す目途も立つのでしょうか?
以前、美衣子博士と結博士の番組を視聴した際、「ヒトの思念力=テレパス」が物理法則を変える、とご説明されていたと思います。液体化した溶液がヒトに戻りたいと願えば、元の姿に戻る事も可能と理解しますが?」
グリナートの背後で立ち会っていたユーロピア共和国のジャンヌ首相が訊く。
「その通りよ」
美衣子が腰に手を当てて頷く。
「ただ、現時点においてヒトに戻った事例は見当たらない。
これは物理法則変更以前に、ヒトに戻りたいという思念力が薄い事の表れかもしれないわ」
神妙な表情で応える美衣子。
「植物や溶液の状態が心地良いのか、ヒトとしての形を失うことで意思が薄弱になってしまうのか、本人じゃない限り説明は難しいわ」
試験管の中でゆらゆらと揺れる液体化した琴乃羽美鶴を指さす美衣子。
「心地良いですと?ヒトをこのような姿にしておいて、”福音”とは。シャドウ・マルスの悪辣さが際立ちますな……」
ため息をついて肩を竦めるグリナート大佐。
「美衣子博士。このままだとヒトの姿を失った者は時が経つにつれ、ヒトとしての自覚が消えてしまうのではないかね?」
日本国政府代表として立ち会っていた黒子厚生労働大臣が質問する。
「それは外部からの刺激が無い場合よ。こちらから”話しかける”事で、自我の消失を遅らせる事が可能かもしれないわ」
自らに言い聞かせるように美衣子が答える。
「私も美衣子に同意します。我々よりも短い生に”執着”する地球人類ならば、此方からの呼び掛けに反応してくれるでしょう」
マルス・アカデミー側アドバイザーとして、木星作業船団から派遣されたゼイエスが美衣子の説明に頷く。
「分かりました。総理には引き続き、人へ戻す研究が有効であると報告しましょう」
研究チームを率いる黒子大臣が研究続行を宣言した。
♰ ♰ ♰
――――――溶液・植物化人類の分析を始めて3ヶ月後。
ミツル商事マルス・アンドロイドのツルハシ3号が、木星スライム"ミニ"から意思疏通方法のアドバイスと、美衣子の果てしない電撃実験を経て製作した生体電気変換型意思疎通装置”聴き耳君”が完成した。
製作当初から木星スライムの依代兼電撃被験者としておはようからおやすみまで美衣子に協力したツルハシ3号は、電撃で煤けて白く燃え尽きーーーーーーはしなかった。
ご褒美として美衣子から一泊二日の火星~木星の弾丸ツアー(木星作業船団のリア隊長への唐揚げ差し入れ)を与えられたツルハシ3号は同僚達から羨ましがられーーーーーーなかったという。
ミツル商事が無償で製作方法を公開した事で量産化に成功した人類は、月面都市ユニオンシティ、火星アルテミュア大陸人類都市ボレアリフ住民と月面基地に駐留していた自衛隊員に、家族や恋人・友人が思いの丈を届け始めるのだった。
人々の呼びかけに応えて反応した液体や植物は全体の3割に及んだが、琴乃羽からの反応は無く、意思疎通が出来た者からヒト形態に復元した者は未だに現れなかった。
人々は諦念の境地に達しつつあった。
シャドウ・マルスの電磁波攻撃”福音システム”によってヒトの姿形を失った者は月面と火星アルテミュア大陸で40万人余りに上り、地球人類生存圏に新しく誕生した物言わぬ密林とヒトの名残を残した湿地帯だけが、”アトランティス住人成れの果て”であるアマゾン密林地帯の如く存在するのだった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m
【このお話の登場人物】
・大月満=ミツル商事代表取締役社長。元総合商社角紅社員。
・大月 ひかり=大月満の妻。ミツル商事監査役。
*イラストは七七七様です。
・大月 美衣子=マルス・アカデミー・日本列島物育成環境保護システムの人工知能。
*イラストは里音様です。
・大月 結=マルス・アカデミー・尖山基地管理人工知能だったがバージョンアップされた。
*イラストは里音様です。
・岬 渚紗=ミツル商事所属研究員。医療・海洋生物学博士。
*イラストは更江様です。
・琴乃羽 美鶴=ミツル商事所属研究員。マルス・アカデミー応用科学・技術研究担当。
*イラストは更江様です。
・ジャンヌ=ユーロピア共和国首相。
*イラストは七七七様です。
・グリナート=英国連邦極東軍大佐。ロイド提督の副官。
・黒子=日本国厚生労働大臣




