閑話 遅すぎた退避命令【前編】
――――――日本列島が火星に転移する少し前。
2020年3月10日午前0時4分【東京都 新宿区 市ヶ谷 防衛省本庁舎 防衛大臣執務室】
防衛大臣の桑田は、昨日未明から働き詰めだった。
北海道東方沖、尖閣諸島で国籍不明船の目撃情報が相次いだ為である。
北海道東方沖では、旧ソヴィエト連邦の国旗を掲げたミサイル駆逐艦が、領海内を悠然と航行しているのを漁船が発見した。
尖閣諸島では、謎の木造漁船が異常なスピードで海上保安庁巡視船を振り切って逃走を続けているとの通報があった。
いずれの海域も自衛隊艦船が接近を試みると、直ぐに距離を置かれてしまい詳細が確認出来ない、と現場の指揮官が本部に指示を求めていた。
たまたま定例視察で地下司令センターに居合わせた桑田は、第1報入電時から陣頭指揮を執り空自・海自を大規模に動員して捜索活動を続けていた。
しかし、空自の早期警戒機を投入しても探知出来ず業を煮やした桑田は、イージス艦と潜水艦も投入、更に横須賀の在日アメリカ海軍司令部の協力も得て空母『ロナルド・レーガン』から電子戦哨戒機を飛ばして捜索にあたったが、日没時に於いても発見報告は無かった。
統合幕僚監部の報告を受けた桑田は、地下司令センターから執務室に戻って仮眠を取っていた。
深夜午前1時頃、突然執務室の扉をドンドン激しく叩く音と共に、
「桑田隊長!敵襲でありますっ!ご命令願いますっ!」
大声で若い隊員と思われる声が桑田を叩き起こした。
「わかった!今行く!」
桑田が大声で返答し身支度を整え始める。
桑田は父親が旧日本陸軍近衛連隊出身であり、桑田自身も高校卒業後に陸上自衛隊に入隊して30代まで普通科連隊中隊長として勤務した経験を持つ。
そんな彼は常日頃から秘書官や防衛事務次官、当直隊員に「俺の事は大臣と呼ぶな、"隊長"と呼べ」と言っていた。
桑田は、司令センターから急ぎの伝令が来たのだろうと思っていた。
「よし!準備が出来た。入ってよし!」
桑田が大声で入室を許可したが、扉が開かれる事は無かった。
暫く待っても隊員の声が聴こえないので扉を開けてみたが、執務室の外は静まり返っており、誰も居なかった。
不審に思った桑田は、内線電話で大臣官房に問い合わせたが、
「大臣宛に、緊急の連絡や官邸からの呼び出し等はありません」
との事だった。
既に事態は収束したと思い、眠気を感じた桑田は再び仮眠に就くのだった。
♰ ♰ ♰
――――――翌日
再び昨日と同じ海域で警戒中の海上保安庁巡視船が不審船を目撃、桑田は仮眠もそこそこに早朝から地下司令センターに籠りっきりとなった。
そしてまたしても、日没と同時に不審船の情報は途絶えるのだった。
徒労感に襲われた桑田は現場への指示や官邸への報告で疲れた頭を休ませるべく、いつもの仮眠場所である大臣執務室にある折り畳み式の簡易ベッドで仮眠していた。
3月11日 午前零時を過ぎた頃、大臣執務室のドアが激しく叩かれて、
「敵襲です、桑田隊長!ご命令を!」
再び例の隊員の声が聴こえたので桑田は、
「どこが攻めて来たのだ!」
と訊き返すと。
「敵襲に付き、隊長殿のご命令を至急頂きたいのであります!」
と返事が返ってきた。
「分かった、入室してよし!」
桑田が入室許可を与えたが一向に外の隊員は室内に入ろうとせず、ドアをドンドン叩いて
「失礼します!敵襲です!桑田隊長!ご命令願いますっ!」
先程と同じ行動を繰り返していた。
そのうちにノックの音が大きくなり、数人が慌ただしく話す声がした後に「バカヤロー!」と怒声が響いてドアをガンガン!ドスドス!と、数人がかりで蹴破らんばかりに激しく叩く気配が伝わってきた。
やがて、焦げ臭い匂いまで部屋に漂い始めた。
流石に異常事態だと気付いた桑田は、ベッドに腰かけたまま内線電話で大臣秘書官を呼び出したが、秘書官は冷静さを保っており、
「現在のところ、襲撃等大臣に報告を要する、緊急の事象は発生していません」
との返答だった。
「執務室の外で、数人の隊員が大声でドアを叩いて騒いでいる」
不思議な返答に首を捻った桑田が伝えると、電話口の向こうから息を呑む音が聞こえ「直ぐに向かいます!」と言って通話が切られた。
ものの1分もしない内に、当直警護隊が大臣秘書官と完全装備で駆け付けたが、執務室の外はやはり静まり返っており、誰も居なかった。
駆け付けた隊員が執務室の扉を念入りに調べたところ、木製の扉に無数の血塗れの手形が残されており、その場で警備隊が市ヶ谷警察署へ通報した。
市ヶ谷署鑑識課が直ぐに駆け付けて現場検証を行ったが、多数の手形が微かな焦げ跡と共に、扉の外側にびっしりと残されており、警視庁は防衛省本庁舎への建造物不法侵入と器物損壊、威力業務妨害容疑で捜査を開始した。
連日の徹夜と不可解な出来事で疲弊した桑田は、庁舎内での仮眠を諦め、大臣車で大田区田園調布の自宅へ戻る事にした。
市ヶ谷から首都高速3号線で用賀へ向かう途中、車内で微睡んでいた桑田は、後部座席背後の窓ガラスがバンバン!と激しく叩かれる音で飛び起きた。
テロリストの襲撃かと、身構える桑田と助手席のSP。
運転手も、路肩に停車しようと思わずブレーキを踏んで速度を落とす。
「馬鹿!速度を落とすな!思う壺だ!」
SPが叫ぶと大臣車は急減速から急加速した。
運転手は顔面蒼白で前方を懸命に見据えてハンドルを握っていたが、バックミラーを凝視した途端、「ぎゃっ!」と小さく呻くとハンドルに突っ伏した。
運転手の異常に気付いたSPは、ちらりとバックミラーを一瞥した後、後部座席の桑田を気遣いつつ、
「そのまま振り向かず、姿勢を低くして、前方か床だけを見ていてください!直ぐに応援を呼びます」
SPは、ぐったりした運転手を助手席側に引き寄せ、ハンドル前へ移動してアクセルを踏み込むと、猛スピードで用賀料金所を目指して疾走した。
桑田は襲撃の恐怖で飛び降りたくなったが、自衛官時代に培ったなけなしの根性を総動員して後部座席の床に屈み込む様に身体を丸めながら車中に留まった。
後部窓ガラスを叩く音がバシン!バシン!と激しさを増し、頭上もドスドス!と車の天井を突き破らんばかりの足音が桑田に迫る。
桑田は顔面蒼白で息を潜めて床に這いつくばる事しか出来なかった。
5分後、大臣車が用賀料金所に辿り着く直前、大臣車を激しく叩く物音がぴたりと止んだ。
SPからの緊急通報を受け、待機していた機動隊と警視庁公安の車両が、大臣車を護るように取り囲んで桑田を保護し、意識不明の運転手と到着直後に卒倒したSPを救急車で病院へ搬送していく。
運転手は救急搬送された病院で急性心不全による死亡が確認され、SPは極度の疲労と緊張による脱水症状と意識障害を引き起こしているものの、命に別状は無かった。
「車の後部窓ガラスに複数の真っ黒な煤塗れの人影が貼り付いて、血走った瞳で何かを叫びながら、車の天井と窓ガラスを懸命に叩いていた」
SPは意識を失う寸前、同僚にこう話したと言う。
桑田自身も念の為世田谷区三宿に在る自衛隊中央病院まで搬送され、当直医官の診察を受けたが軽い脱水症状であり、一晩の安静が必要と診断された。
昨日の防衛省内大臣執務室の不審者侵入騒動で捜査を開始した警視庁は、新たな事件に仰天し大臣車の現場検証を行ったところ、後部窓ガラスに血液がこびりついた無数の手形と焦げ跡の着いた無数の足跡が天井部分で発見され、手足の大小から容疑者は少なくとも5人と鑑識は推定した。
だが、警察庁と国会公安委員会が所有する生体データに、該当する手形や血痕の人物は存在しなかった。
夜が明けて、警視庁刑事から病室で報告を受けた桑田は、事態を深刻なものと捉えざるを得なかった。
桑田は今まで心霊やオカルトを信じていなかった。
しかし、事ここに至ってはその考えを改める必要があるかも知れないと弱気になっていた。
事情聴取と報告で訪れた警視庁担当刑事が病室を出た後、岩崎内閣官房長官が見舞いに訪れた。
「お身体の調子はいかがですか?」
「心配かけて済まない、岩崎さん」
桑田がベッドから身体を起こすと岩崎に頭を下げる。
「いえいえ、お気になさらず。貴方が無事で居てくれて良かった。一体何が起こったのですか?」
桑田を労わりながらも事情を聴く岩崎。
桑田は意を決して、昨晩から身辺で起きた出来事を岩崎に説明した。
岩崎は黙って桑田の話を聴くと、彼の目を真っすぐに見つめて尋ねる。
「桑田さんのお父上は、前の戦争の時に近衛連隊に所属されていたのですよね?」
「ええ、終戦前の数か月間だけでしたが何か?」
「お父上は当時『市谷』の陸軍参謀本部を護る市谷高射砲陣地まで、応援に行かれていたと聞いた事が在ります。其の辺りを調べると良いかも知れません」
それだけ言うと、用事を思い出したと言って岩崎は病室を出ていった。
病院を出た岩崎は国家安全保障局に連絡を入れ、内閣調査室長を呼び出すのだった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m
2018年夏のミステリー、に参加した時のお話を転移列島版に加筆修正したお話です。
【このお話の登場人物】
・桑田=日本国防衛大臣。
・岩崎=日本国内閣官房長官。




