ハッキング
2026年(令和8年)1月5日午前零時30分【東京都立川市 航空自衛隊 航空総隊司令部 統合空域管制指令室】
日本の防空識別圏(ADIZ=エイディス)を自動的に警戒監視する、ジャッジ・システムがエリア51からのハッキングを受けて1時間が経過していた。
指令室の全員が懸命に打開策を模索したが事態は改善せず、依然として日本列島上空の航空管制が乗っ取られていた。
そんな中、最悪の事態が始まろうとしていた。
『こちら百里、302レッドリーダー。そちらのコントロールが一時 途絶えた。何か有ったのか?』
百里基地所属F15戦闘機パイロットから通信が入る。
「レッドリーダー。コチラ府中。問題ナイ。電気系統ノトラブルダ」
機械的な音声が自衛隊管制官に成り代わって通信に応答する。
「おい!誰だ、貴様は?勝手に通信に割り込むな!」
指令室管制官が慌てて機械音声に制止を命令する。
「302、アンノウン探知。方位03、12000フィート」
『ラジャ、302、03に向かう』
誘導に従うF15パイロット。
『こちら日本マルス航空6620貨物便。まもなくそちらの空域管制に入る。誘導頼む』
「コチラ府中。誘導スル。方位ソノママ、高度12000フィートマデ上昇セヨ」
『了解、12000まで上がる』
貨物機の誘導要請に応えた機械音声が上昇を指示する。
「おい!何する気だ!」
指令室管制官が機械音声の意図に危険を感じる。
『こちら302。指定された高度に到達した。前方7000にアンノウン大型1機探知。夜間の為、目視による確認困難。赤外線暗視システム使用。……んん?アンノウンは大型旅客機のように見えるが?』
「302、ビンゴダ。アンノウンハ、北海道東方沖カラ飛来。機種ハ、ユニオンシティ軍戦略爆撃機Tuバックファイアー」
機械音声が事実と異なる状況説明を行う。
「おいっ!何を言ってるんだ!あれは日本マルス交通、民間機だ!百里302応答せよ!」
指令室管制官が呼び掛けるが、通信システムがハッキングされているのでF15パイロットに通信は届かない。
『了解。府中、これからROE=交戦規定に則り、警告射撃を開始する』
『こちら日本マルス交通6620。後方から、小型機2機が急接近してくるぞ!ニアミスか!?』
貨物便の機長から焦った声で確認が入る。
「コチラ府中。民間機護衛訓練ノ自衛隊ダ。気ニスルナ」
「違う!6620!そいつは、こちらの管制ではない!目を醒ませ!」
必死に呼び掛ける指令室管制官。
「ダメです!こちらからの通信が遮断されています!」
「……何と言う事だ」
指令室管制官の答えを聞いた鷹匠司令の顔が蒼ざめていく。
『こちら6620!後方の航空機が何か発射したぞ!』
「訓練用ノ曳光弾ダ。問題ナイ。6620ハ、針路維持セヨ」
『こちら302。警告射撃にアンノウン反応なし。舐めやがって!ROE(交戦規定)に基づき、目標排除に移行する!』
臨戦態勢に緊張しているのか、悪態をついて手順詠唱の声が上ずっていくF15パイロット。
「馬鹿なっ!?百里302、撃つな!あれは民間機だぞ!」
指令室管制官が懸命に呼び掛けるが、指令室通信センターもハッキング影響下にあり航空機には届かない。
『こちら302。アンノウンロックオン。サイドワインダーを使用する』
「コチラ府中。アンノウン針路変化ナシ。攻撃ヲ、許可スル」
「やめろーっ!!」
指令室管制官の絶叫も虚しくF15から空対空ミサイルが発射される。
『なっ!?何かが当たっ――――――』
雑音と共に貨物機の無線が突然途絶える。
『こちら302。アンノウン撃墜!確認を求める』
初めての撃墜に高揚するF15パイロット。
「……司令。レーダーから6620便が消えました……」
指令室要員は冷や汗を噴き出しながらなす術も無く、状況を見る事しか出来なかった。
『府中、撃墜確認を求める。府中応答せよ』
「……ククク」
F15パイロットの求めに機械音声は含み笑いを漏らすのみで応答しない。
『……おいっ、府中!我々は何を撃墜した?あれは737(ボーイング機の種類)じゃないのか!?』
違和感に気づいたF15パイロットが錯乱気味に叫ぶ。
「ククク……日本マルス航空6620便ダ」
ほくそ笑む機械音声。
『なんだと?府中、どうした?気でも触れたのか!?おい府中!応答せよ!』
動揺するF15パイロット。
指令室通信機から302飛行隊の呼び出しコールが狂ったようにがなりたてていたが、通信センターはハッキングされており、誰も応答することが出来なかった。
鷹匠司令は、絶望的な表情でオペレーターに告げた。
「……市ヶ谷防衛省司令部と官邸に連絡しろ『我が国は列島全域の制空権を失った』」
力無く座席に座り込んで頭を抱える鷹匠准将。
防空識別圏自動警戒管制システムをハッキングしたエリア51のDNAコンピューターは、日本列島上空の制空権を手に入れた。
更にDNAコンピューターは、ADIZを通じて陸海空三自衛隊の指揮通信システムも掌握、日本列島の国防体制は麻痺状態に陥った。
マルス・アカデミー・研究室を改装した航空・宇宙自衛隊ダイモス基地は唯一、マルス・アカデミー通信システム下に在ったため難を逃れた。
自衛隊指揮通信システムに続いて日銀金融ネットワークシステム、同当座預金系・国債系決済システム、三大メガバンクのオンラインシステムがエリア51からのサイバー攻撃により、次々と機能不全に陥った。
列島各国と北半球アルテミュア大陸、南半球ヘラス大陸の人類都市は、日本国通信システムがハッキングを感知した段階で自動的に接続を遮断、自らのコミニュティへの損害は防がれたものの、火星の人類都市は外部と一切の通信接続が出来なくなって孤立した。
午前7時45分、後白河財務大臣兼外務大臣と日銀総裁が緊急時行政指揮権発動を宣言、全ての国内金融機関、国内証券取引所について事態収束までの間、取引及び営業の停止と全ATM稼働停止を発表した。
突然の発表直後からあらゆる電子マネー、交通系ICカード、クレジットカードの使用が出来なくなり、各地の交通機関、飲食店、コンビニエンスストアーで多数の決済難民が発生、市民生活は大混乱に陥った。
混乱が全国規模で拡大した午前8時15分、日本国政府は日本列島全域を対象として第三次世界大戦以来2回目となる国家非常事態宣言を発令、企業・学校・役所が当面の間活動中止となり市民の外出が禁止されたのだった。
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【神奈川県横浜市神奈川区 NEWイワフネハウス地下 琴乃羽研究室】
美衣子と結が”琴乃羽”だった液体を前に佇んでいた。
「……なんてこと」
美衣子と結が沈痛な表情で液体を見つめる。
「由々しき事態ですわ、お姉様」
つぶらな瞳で美衣子を見る結。
「福音システムは、人類を無意識の内に自ら別の生き物に転換させる事が目的ね……」
琴乃羽が溶解する直前まで入力していた解析データーを調べていた美衣子が言う。
「問題は、ヴォイニッチ手稿なる物がどこから"流出"したかよ。まあ、出所は『シャドウ=ダグリウス』しかあり得ないと思うけど」
「『シャドウ』はマッカーサー三世だと?」
美衣子の言葉に結が驚く。
「そんな、今更の事言っても始まらないわ。でも、人類をこんな液体に変えてまで『シャドウ』は何がしたいのかしら?」
美衣子が首を傾げる。
「人類の殲滅なら、わざわざ溶かすこともなく物理的に地球各地の核兵器を使用すれば良いだけ……。それをせず回りくどい事をする理由とは……。結、これは時間がかかりそうね。ひとまずプリンでも食べながら考えましょう」
美衣子が気を取り直すように前を向く。
「美衣子姉さま、プリンの在庫が昨日のお風呂上がりで底をついたわ。コンビニへ買いに行かないと」
在庫切れを指摘する結。
「くっ……今はシャドウのハッキングで日本中の流通システムが停止しているわ。恐らくコンビニにプリンは無い……」
現実に気付いて項垂れてしまう美衣子。
「……外出禁止令も出ていますわ姉様」
コンビニへ行く事も出来ないと分かった結は、琴乃羽が座っていた椅子に項垂れて腰かける。
「物理的に日本列島を侵さない限り日本列島生態環境保護育成プログラムが作動しない事を計算しているとしたら、ダグリウスは相当に悪辣だわ……」
日本列島生命環境保護プログラムの裏をかくサイバー攻撃に、深刻な脅威を感じざるを得ない美衣子だった。
「地球は大丈夫かしら……」「ユニオンシティへも通信不通だわ」
人工知能の申し子たる美衣子達三姉妹と言えど、全ての通信システムが遮断された事態に美衣子と結は瑠奈の事を心配せずにいられなかった。
「……でも、とりあえずプリンを確保する事が最優先課題ね」
縦長の瞳を細めると、瑠奈よりもプリン確保向けた行動について思案する美衣子だった。




