第二王子の不条理劇3
「ゆ、譲る……?」
男は「ええ」と頷いた。
「昨夜たまたま生け捕りにできまして。娘が大層気に入っていましてね。驚くべきことに生きたまま飼いたいと言うのです」
「素晴らしいことじゃございませんこと?私は感動で耳を疑いましたわ。あの子が生きているものを愛でたいと思うなんて初めてのことですもの」
初めて男以外の影が口をきいた。おっとりとした優しげな声。聞いたことのある声。
床にへたりこんだまま椅子の足に縋りついていた母が、大きく身を震わせた。ドロシー嬢の王子妃教育について、何度も王宮に呼び出したことのある女性の声に思い当って――これはドロフォノス侯爵夫人の声だ。
「ねえ側妃殿下、母親としてはその可愛らしいお願いを叶えてあげたいのです。もちろん兎は大切に致しますわ。新品の首輪、新品の口枷、新品の檻」
ルナールの背後の影――生首のゼリー寄せを持っていた者――が、クスクス笑った。
「母上、気が早いですよ。でも放し飼いの場所は必要だから、私も早く地下室を空けてやらなくちゃ」
この声も聞いたことがある。ドロシー・ドロフォノスの兄だ。妹に似た美しい面差しだが、妹とは似ず陽気な男。
ドロフォノスらはにこやかに『兎の処遇』について意見を交わし、最後に父王へと話をふった。
「さあさあ陛下、兎がいなくなったとて貴方様はなにも困らない。譲ってくださいますね?そもそも兎は殺すより生かしておいた方がよいのです。美味しそうな林檎がひとつだけ木になっているとしましょう。それを手にする権利は兎と狐が持っている。兎が死ねば林檎は狐のものだ。でもその林檎を他にも欲しいと思っている者がいたら?そうなれば次に死ぬのは?」
誰も声を出さないなか、ルナールが口を開いた。舌がもつれ、言葉が喉に絡む。
「き、き、きつね……」
男は優雅な仕草で手を叩いた。その音に驚き、思わず男を見上げてしまう。視界に入る黒髪に緑眼――完璧な立ち姿の美丈夫ドロフォノス侯爵が、人好きのする微笑みを浮かべて立っていた。
「素晴らしい。そのとおりです、第二王子殿下。今回の狐もそう考えて兎をすぐに殺さなかったようです。大方自分だけが知るところに閉じ込めておくつもりだったんでしょう。兎も狐も殺して林檎を手に入れようと企む、蛇の目の届かないところにね」
「とっても賢い狐ちゃんだわね」
「いやいや悪い狐さ、母上」
笑い合うドロフォノスの母子。残忍に歪んだ緑眼がこちらを見下ろす気配がする。自分の頬や鼻先から冷や汗が滴り落ち、食べかけのスープに波紋を作る。こわばった指を動かし、ルナールはテーブルの下で祈るように手を組んだ。不安なときに誰かがこうして手を温めてくれたけれど、それが誰だったかルナールはもう忘れていた。
侯爵は今にも気絶しそうな父王の耳元に口を寄せ、優しく囁く。
「兎は生きたまま我が家で秘密裏に飼う。王家としては逃げおおせたということにすればよろしい。王位継承権はいかようにもお好きに。それで今回はすべて水に流します。私共はもうしばらく王家の忠実なる隣人でおりましょう。いかがですかな?」
食堂にいた十人以上の給仕人たちは、全員壁際で倒れている。食堂の外には護衛もいたが、なんの気配もしない。次の皿は運ばれてこない。
王に、はじめから選択権などない。
ドロフォノス侯爵家は、国を裏から支配する一族。彼らの正体は王になった者だけに言葉だけで伝えられ、なんの記録も残っていない。だから一体いつから、だれから、どうやって、この支配が始まったのかは分からない。
ただ、時の王には必ず三つのことが伝えられる。
彼らを使うときは覚悟が必要であること。
彼らとの約束はなにがあっても守ること。
死にたいとき以外は、彼らに逆らってはならないということ。




