第二王子の不条理劇
「あの臆病者が消えたとか」
朝食の席で、父が言った。
頭髪や口髭に白いものが混じり始めているが、がっしりとした体躯は衰えもなく、五十を過ぎた男とは思えぬ眼光の鋭さであった。
父の言う臆病者とはもちろんルナールの異母兄、クロッド・イグルーシカのことだ。
スープをすくう手を休め、側妃が身を乗り出す。
「ええ、本当にとんでもないことですわ。女と共に逃げたと書置きがあったんですって。一体どこまで王家に泥を塗れば気が済むのやら。護衛もみな役立たずばかりで見張りひとつできない」
父王は忌々し気に鼻を鳴らした。
「クロッドも含めて、どいつもこいつも処分だ。街道が封鎖でき次第しらみつぶしに探す。まあ、あの根性なしのことだ。こちらが見つける前に泣きついてくるだろう。どこぞで野垂れ死んでいなければな」
ルナールは俯いたまま、思わず口端だけで笑ってしまう。
どうやら計画はうまくいったようだ。案内人が報告に戻らなかったのは気にかかるが、まだ見つかってないということはクロッドを拉致し、既に王都を出たのだろう。
「戻ってきたところでただではすまさん。前々からドロフォノスの娘との婚約は解消したいと抜かしていたが、まさか女を作って逃げ出すほど愚かだと思わなかった。狩猟もまともに出来ん腰抜けの分際で、女狩りに入れ揚げるとは」
――腰抜けね。ボクからすれば狩猟なんて野蛮で時代遅れな軍事訓練モドキは、もう止めてほしいけどな。この脳筋ときたら、また災害だの疫病だのが発生して、周辺と小競り合いが起こるって決めてかかってる。そんなのボクが生まれる前の昔の話じゃん。20年以上なーんにも起こってないのにご苦労なことだよ。
ルナールは父王の文句が終わったのを見計らい、ぽつりと零す。
「兄上どこへ行っちゃったんだろう。これから寒くなるから身体でも壊したら大変だよ。一緒にいる女の人は大丈夫なのかな」
――まあ、そんな女いないけど。
あんな道化についていく女なんているわけない。いるとしたら、恐ろしく王命に忠実なドロシー・ドロフォノスだけだ。まさかあの場で婚約破棄を了承しないとは思わなかった。
いつも無表情でなにを考えているか分からない女、ルナールがわざわざ話しかけても笑みひとつ浮かべない嫌なご令嬢。でも、王太子に、ひいては王になるからにはドロフォノス家の支持が必要だ。
「ドロシー嬢が心配だな。先だっての夜会で失礼なことをしたうえに駆け落ちだなんて……近々ドロフォノス家にお見舞いに伺おうかな。ねえ、父上」
「ああ、いや……」
珍しく歯切れの悪い返事だ。
「まあ、そんな必要はないだろう。ドロシー・ドロフォノスは気にしていない。ルナールも、クロッドのことは気にするな。お前は堂々と構えていろ」
もちろん言われなくてもそのつもりだ。ただ、これを機にドロシー嬢と距離を縮めておきたいだけなのだが。
「優しいのね、ルナールは」
対面に座る母が子猫でも見るような目で微笑んだ。
「きっと大丈夫よ、ドロシー嬢のことも……クロッドのこともね。身体だけは丈夫だもの。心配するだけ損よ。小さいころ大雪のなか迷子になったときだってアレはぴんぴんしていて、風邪をひいたのは探しに行ったあなたの方だったでしょ?」
まったく配慮のない母だ、とルナールは内心毒づく。
――あのときはアンタが兄上を置いてったのが悪いんだよ。わざと放置したと知ってたら使用人総出で探しになんて行かなかったのに。これで母上本人は懐かしい思い出話のつもりなんだもの。まったく性根の腐った女だ。
「そうだったね、懐かしいな」と表面上は取り繕う。
「ルナールったら本当に元気いっぱいでヤンチャだった。目の離せない子だったものね」
母の中で幼いルナールは、元気な子供だったらしい。実際は身体が弱くて、外で遊ぶことはほとんどできなかったのに。
乳母には不憫だと泣かれ、侍女には心配だからとベッドから出してもらえなかった。母は父の歓心を買うことに忙しく、父は「生まれつき身体が弱く長く生きられないだろう」と侍医の見立てを聞いた後は会いに来なくなった。
父も母もそんなことはすっかり忘れてしまっている。年を経て健康になってからは、自分でも時々忘れてしまうくらい昔のことだ。
今でもボクを病弱な弟扱いしてくるのはあの道化くらいだ、とルナールは思った。
ベッドの中で童話や英雄譚やルナールが主役の作り話を聞かせていた頃みたいに、いつまでも義弟が慕っていると思っている。褒められるのが好きで、抱き締められるのが好きで、眠れるまで手を握ってほしいとぐずる子供のままだと思っているのだ。
――さすがにボクが王太子になったら奴も弁えるだろう。簡単な執務はできるし、優秀な側近をよこしてくるし、いろいろ役に立つときもある。不穏分子を消した暁には、監獄から出してやってもいいな。そうだ、ボクが王になったら――
『大丈夫、きっともうすぐ元気になるよ。そうしたら私の作ったお話みたいに王様になればいい。立派な王様になれるよ、ルナールなら』
「……あれ?」
「どうしたの、ルナール?」
母の声が上滑りしていく。
――ボクが王になりたいのは、何故だったっけ?
ルナールが自らの深淵を覗く前に。
「ごきげんよう、皆様」
別の深淵が現れた。




