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幕間2/大好きな婚約者 ※過去のおはなし

今日が雨でよかった。

婚約者ドロシー・ドロフォノス侯爵令嬢の姿を見とめ、一気に得をした気分になる。我ながら単純だ。


美しい婚約者殿は、衣擦れの音もさやかに颯爽と広間を横切っていく。2名の侍女が影のように彼女に付き従っている。

クロッドも音を立てず、ドロシー嬢の後ろをゆっくり付いて行った。気持ちだけは彼女の隣を歩いているが、実際には大きな踊り場を経た五十段以上ある階段を上った先の二階と一階。高さにすれば一万二千レクト。柔らかな絨毯のおかげで、こちらの靴音は一切響かない。向こうは絶対に気付かないだろう。


それにしても、こんな雨の日に出向いてくれる用事とは。


――王子妃教育の日だったのかな。大変だろうな。私になにか出来ることがあればいいんだけど……。


と、考えて「出来ることないな」と落ち込む。自分程度が手助け出来ることは、ただのひとつもない。

家庭教師にこっそり聞いたところによれば、ドロシー嬢は教えることがないほど優秀で、何百年も前から生きているのではないかと思うほど知識量は広く深く、あらゆる言語、あらゆる歴史、あらゆる国について精通していた。クロッドが苦し紛れに読んでいる謎の学術本も、彼女なら簡単に読み解けるのかもしれない。


クロッドが彼女のために出来ることは、ひとつ。

なるべく関わらないこと。これだけだ。


いや、もうひとつ彼女のために出来ることがあった。ラースカがドロシーに与えた王宮の部屋から見える裏庭を居心地よく整えることだ。古臭い敷物や、高級だけど一昔前の調度品、武骨で大きな暖炉しかない休憩室は庭も荒れていた。その裏庭に、森からとってきた花を植えたり、小鳥の入れる小さな家を作ったりするのが最近の楽しみだった。野花は強靭で、夜に植えても翌日にはちゃんと元通り咲いている。森よりも庭の方が開花条件に合っているのかもしれない。


ドロシーが庭の変化に気付いているかどうかは分からない。永遠に聞くことはないだろう。


そろそろ平行する回廊が終わる。


クロッドは名残惜しく、ドロシーの後ろ姿が遠ざかっていくのを見つめた。

遠くから姿を見るだけでいい。誰かに話しかけている声を聞くだけでいい。彼女が手に取ったものに、ほんのちょっと触れるだけでいい。……いや、本当はできれば目の前で見てみたいし、自分に話しかけてほしいし、彼女の手に触れてみたかった。次はいつ姿を見れるだろう。自分との婚約がなくなるまで、あと何回会えるだろう。


ふと、ドロシーの足が止まった。

次の瞬間、まるで最初からいることを分かっていたようにドロシーがこちらを振り返った。隠れる間もなかった。


雨上がりの森を閉じ込めた緑眼に射抜かれ、クロッドはその場に立ち尽くす。ドロシーはかすかに首を傾げると、蝶が羽を広げるより軽やかに淑女の礼をした。

クロッドはわざと大きな動作で顔をそらす。彼女が顔を上げないうちに、荒々しくその場から離れた。情けないことに心臓が早鐘を打っている。


ろくに注意を払わなかったせいで、角を曲がった先で使用人に思い切りぶつかってしまった。若い侍女が悲鳴をあげ、抱えていたリネン類が床に散らばった。


「あ、ごめ……」


思わず膝をついて拾いかけ。


「申し訳ございません!」


すんでのところで思いとどまった。道化王子は使用人に謝らないし、親切になどしない。怯える侍女に胸を痛めながらも、一言「気を付けろ」とだけ言い捨てた。


そのまま自室に飛び込み、扉に背を預けてずるずるとへたり込む。


「また逃げてしまった……」


ほとほと自分が嫌になる。未練がましくて、見苦しい。無垢な翡翠の瞳に、そんな邪な想いを見透かされた気がして、また逃げ出してしまった。


「大丈夫よ」


突然扉の向こうから小さな声が聞こえ、身構える。

が、どうやら自分への呼びかけではない。外にいる使用人同士の話し声のよう。


「ほら泣かないで。私も手伝うわ。一緒に洗ってあげるから」「ほんとにひどいわよね。向こうがぶつかってきたんでしょ?」「私たちのことなんか目に入らないのよ。自分ひとりじゃなんにもできないくせに」「大っ嫌い、あの道化――」「しっ!静かに」


ふっつりと声は聞こえなくなった。


人の気配が完全に消えたころ、ようやくクロッドは立ち上がり、火の入っていない暖炉前の長椅子に座った。肌寒かったけど我慢することにした。

持ってきた三冊から一番薄い詩集を選び、そっと表紙を開く。塞いだ気分が明るくなる詩があればいいな、と思いながら。


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