幕間2/霧雨の王宮にて ※過去のおはなし
雨の日は本当にやることがない。
「……今日も止まないだろうな」
クロッド第一王子は、回廊の窓からぼんやりと外を眺めた。
二、三日前から降り続く霧雨は、眼下に広がる大庭園を銀の幕で覆い隠し、はるか遠くに見える王都さえ教会の尖塔が黒く浮かび上がるほかは、白く塗り潰されてしまっていた。
いつもなら狩猟(という名のただの動物観察)に出かけるところだが、この空模様では今日も難しいだろう。
世間が汗水たらして働いているなか退屈などと言えば罰が当たりそうだが、部屋の中で木剣の素振り稽古をしたり、手元にある本を繰り返し読むのも限界だ。重い腰を上げ、自室から出てきたばかりだった。
窓から離れ、クロッドは再び王宮の書庫を目指して歩き出す。なるべく人通りの少ない廊下を選んで、誰にも行き合わないことを願う。
何故なら王宮にいるほとんどの人間に、めちゃくちゃ嫌われているからだ。
この国の王である父にも、義母にも、出入りする他の貴族にも、侍従らにも嫌われている。理由は様々。クロッドの自業自得で嫌われている部分もあるし、そうでない場合もある。クロッドを毛嫌いしないのは半分血の繋がった弟と、議会の開かれる時期以外は北領地にいる叔父だけだ。
残念ながら、唯一の話し相手である異母弟のルナールは忙しい。
向こうから用事があるときくらいしか言葉を交わすことはなく、今の時間なら定例会議に父と揃って出席していることだろう。
北の大国の王様が変わったとか、東の国が武器を集めているとか、同盟国がお金の支援を求めているとか、遊牧民族がどこを移動しているとか、あの国とこの国が協商条約を結んだとか、国内なら各領の軍備拡充とか天災対策とか小麦の収穫量から算出する領税の確定とか、あちこちから届いた手紙や書簡をもとに協議をしていく。
もちろん嫌われ者はお呼びでないので、父から絶対来るなと厳命を頂いている。
ときどきルナールが、王宮を長く離れる視察などをクロッドにやらせてくれたり、自分の公務を分けてくれたりするのだが、彼に側近がたくさん付いてからはそれもなくなった。
(となると、やっぱり本を読むくらいしかないなあ)
読書なら目立たず、お金を使わず、ひとりでできる。
幸い誰の目にもとまらず、無事に書庫までたどり着いた。歴代の王族が集めた数万もの蔵書から、数冊選んで素早く退出する。本当は古い紙の香りに包まれた、あの静謐な空間でのんびりしたいところだが長居は禁物。そう思っていたくせに、いつもより閑散とした王宮を見て油断した。ツユアオユリを眺めるために、硝子張りのサロンを通ってしまったのだ。雨だから誰もいないだろうと思っていたのに。
「お前が、何故ここに?」
対面の入り口から現れたのは、クロッドが最も苦手とする相手だった。
側妃ラースカ・イグルーシカ。
『クロッドのことを嫌いな人ランキング』で、2位を獲得する女性――義母だ。
彼女の後ろには数人の貴婦人が集まっており、興味深そうに扇の影からクロッドを見ている。値踏みするような視線。思わず丸まりそうになった背を伸ばし、クロッドはあまり刺激しないよう、黙って義母を見つめ返した。
目元に多少老いの影は見られるものの、結い上げた髪には艶があり、身体の線は崩れておらず、ラースカは今でも十分に若く美しい。王よりも王子であるクロッドとの方が年齢が近いほど彼女は若い。まだ三十の半ばである。クロッドが幼いときは姉のように思い、いつか仲良くしてくれることを夢見ていたが、お茶の中に落ちた羽虫を見るような目を毎回向けられるうちに苦手になってしまった。
ラースカは、足音も高くこちらに近寄ってくると、豪奢なレースの扇を勢いよく閉じた。頭ひとつ分低い目線を補うように、扇の先でクロッドの胸を強く突く。
「お前に花を愛でるような趣味はないでしょう。こそこそ嗅ぎまわって一体なにを企んでいるの」
クロッドは軽く肩を竦めた。なるべく軽薄で、気怠げに見えるように。
「企むなんて滅相もない。ただ通りかかっただけですよ。では私はこれで」
「お待ちなさい。それは?」
「ああ……ただの本ですが」
「見せなさい」
零れそうになる溜息をこらえ、脇に抱えていた本をひらりと見せる。
義母は「まあ」と声を上げ、泥水でも飲んだように顔を歪めた。貴婦人たちも表紙を見た途端、意味ありげに目配せする。
「詩集?お前が読むの?……気持ちが悪い」
吐き捨てられた言葉に怯みそうになったが、そんなことおくびにも出さずクロッドはニヤニヤ笑いを口端に張り付けた。
「おや、義母上はお嫌いですか。女性はみな好きなものかと思っておりました。フロイライン・フィーリアの恋の歌を一節でも諳んじれば、すぐ誘いにのってきてくれるもので」
「なッ……なんという汚らわしい真似を……!」
「それでは失礼。よい午後を」
軽く頭を下げて、クロッドは足早に退室する。扉を閉めるとき、背後から小さく舌打ちが聞こえた。




