幕間/丘の上の小さな家で3
「殿下」
「は、はい」
「わたくしは、非常に傷付きました。言うに事欠いて犬……ローシ様をわたくしに押し付けようとなさるなんて」
「お、押し付けようってわけではなくて、いろんな人がいるからまずは親しみやすい身近な男性で」
「平手打ち案件です」
毅然とドロシーは宣言した。クロッドの顔色が変わる。
起き上がってじりじり迫ると、寝台の端までクロッドは後退し、壁際まで追い詰められた。ドロシーは優しく降伏を迫る。
「さ、目を閉じてくださいませ」
「ちょっと待ってくれ……!気を悪くしたなら謝る!わ、私はただドロシーにはもっと」
「殿下、お願いします」
まだ何か言いたげなクロッドに、今度は拗ねたように「お願いします」と繰り返す。
しばしの無言の攻防の末、観念したように柘榴石の瞳がまぶたに閉ざされるのを見て、先ほどまでのしおらしい態度はどこへやら、ドロシーは嬉しそうに身を乗り出した。
――やっと、ごちそうを頂くお許しが出た。
きれぎれの吐息に混ざり、クロッドがドロシーを呼ぶ。
「ん……舌が」
「なんですか?」
「舌が越境してる」
「協定はもう結ばれたのでは?」
「も、元々戦争状態じゃないだろう」
「そうですね、殿下が勝手に出入国制限をしていただけですね」
「それは、だから……ごめんなさい」
「では国交再開ということで。港を開けて頂けます?」
「な、なんか不平等だ……いや、逆に私しか得をしてないような」
「殿下、お静かに」
「ドロシー、でも」
「もう黙って、クロッド」
※※※
自分の隣で、ぐっすりと寝入っている男を見つめる。
なんと贅沢な時間だろうか。
ドロシーは先ほどの平手打ちを思い出し、ぺろりと舌なめずりする。
あの日、クロッドはドロシーに幸せになってほしいと言い、ドロシーは自分の幸せはクロッドを幸せにすることだと伝え合った。ただ残念ながら、クロッドの考えとドロシーの思惑には相違があるようで、ふたりの関係はほぼ進展していない。
何故ならば(今日の発言を引用するなら)、クロッドは自分のことを耳かき(?)だと思っている。で、ドロシーは長年その耳かきしか知らないから、他の耳かきを知ったら今の耳かき(クロッド)は必要なくなるかもよ、と言う。もっとドロシーにふさわしい耳かきが見つかるかも。見目麗しく、身分の高い、お金持ちの耳かきと一緒になれば、また華やかな社交界で侯爵令嬢として幸せに暮らせるよ、と。
――そんな耳かき、へし折りたいんですけど。
言いたいことは分かる。クロッドの考えるドロシーの幸せがソレなのだ。
なにもかも失くした平民の自分ではなく、別の相手と幸せになってほしいということなのだ。
二度とそんなこと言えないように『新品未開封』を無理矢理にでも開封すべきか。と、この半年何度も考えた。
ドロシーに様々な立場を捨てさせてしまった罪悪感や、もうドロシーに差し出せる対価――ドレスや宝飾品や道化から解放するという明るい展望――がないという後ろめたさ。そこに付け込めば、クロッドはドロシーの要求を拒めないだろう。でも、もしそんなことをすれば。
――きっと今みたいに隣で眠っては頂けなくなる。
「……そんなの、いやです」
思わず零れ出た。
――わたくしは、殿下を楽しませたいし、喜ばせたいし、幸せにしたいのだから、やはり生殖行為は彼の意思を尊重すべきですね。うんうん。精神的、肉体的に愛されることが幸福に繋がるという論説が、殿下にも適用されるかしっかり見極めた方がいいですしね。うんうん。
千年以上、死と復活を繰り返し、何度か結婚もしたドロシーはそのように納得している。なんとかギリギリ納得している。生殖行為なんて相手の生体情報を知る方法でしかなかったのに、今になってそれを渇望することになるなんて、嬉しいような悔しいような複雑な気持ちだ。
そういうわけで、冗談を交え、逃げ道を作って、せいいっぱい『お願い』の形をとって。
それで、やっと一緒に眠ることと、平手打ち――ささやかな口付けだけはねだっているドロシーだった。




