幕間/丘の上の小さな家で
ベッドから花の香りが漂う。
クロッドが、洗い立てのシーツをよく陽のあたるムラサキニールの茂みにかけておいたのだろう。ドロシーは眠気を誘う甘い匂いを吸い込み、クロッドの隣にそーっと滑り込んだ。
クロッドはといえば、昼間ライが持ってきた新聞を熱心に読み耽っていた。
ベッド脇のテーブルにはいくつも本が重なり、図書館への返却期限日ごとにきっちり分けられている。多いのは農畜産関係や料理の本。間に挟まるように詩集や画集、大衆小説や外国の紹介本などもある。「お庭でできる野菜作り」という題名を見ながら、ドロシーはなるほどと頷いた。
――畑か。外から見えにくい中庭になら、お作り頂いてもいいかもしれません。そうすれば外にお仕事に行きたいと言わなくなるかも。
ドロシーは、もちろんクロッドに外に出てほしくなかった。
買い物やデート(言い間違いではない!デートだ!!)のときはともかく、長時間離れて別の場所にいるなんて我慢できそうにない(ドロシーが)。外は危険がいっぱいだ!!
それに、サリュースを含むダスク・リコフォス地方はすべてドロフォノスの領地。外部委託している税収管理あたりを、ほんのちょこっとでも手伝ってもらえれば、ドロフォノスからいくらでもお給料を払えるのに。でもクロッドはそれを引き受けてくれない。
王子だった時の私財は自分のものではないと王宮に置いてきてしまったし、ドロシーに養われるのも了承してくれない。
あの適当で不真面目なライ・ローシを見習って頂きたい、とドロシーは思う。
奴ときたら、いつ魔術補佐官の仕事をしているのか疑問に思うほど「仕方なく来てます」風を装って、かなりの頻度で現れるのだ。そして今日みたいに長々と居座ったり、殿下を遊びに連れ出したり――
そう!思い出した!
殿下が仕事をしたがっているのも奴のせいなのだ。いつだったか「世間知らずに男の遊びを教えてやろう」などと言い、殿下を場末の賭博場に連れて行った。そこでライがちょっと離れた間に、殿下は酔っ払いと仲良くなり、新しい言葉を覚えてしまった――『女のヒモ』だ。
酔っ払い共は親切に「ヒモなんかよくねえ。若いんだから働きな」とクロッドに教えを説き、いたく感銘を受けたクロッドは外仕事に行きたいと言い出したのである。
――お友達はもっとちゃんと選べばよかったかもしれません。
と、ドロシーは自分の先走った行動をちょっぴり後悔している。
なお、犬野郎はドロシーに怒られると思い、この「女のヒモ事件」を内緒にしているようだが、すべて筒抜けだ。手下かドロシーがいつでもクロッドのそばに張り付いているから。
ここまで考えて、ドロシーはちらりと隣を見やった。
クロッドはベッドに半身を突っ込んだまま、まだ新聞を読んでいる。
ほとんどの新聞は、文学的な読み物や王都の高級洋装店の春物コレクション、有名歌劇の日取りや観劇レポートなどが多くを占め、小難しい話など載っていない。上流貴族の話題や王政への批判を扱っていたブロックス労働日報は少し前に廃刊となっていた。
ピカールサーカスがやってくる、踊る犬、玉乗りをする象、火の輪をくぐる獅子、空中を飛ぶ人間。大きく掲載されたサーカスの広告を読むふりをしながら、クロッドの横顔を眺める。
そわそわそわそわ
ついに我慢できなくなり、声をかけた。
「なにか気になる記事でも?」
「あ、うん、ちょっとね」
クロッドは照れたように微笑んだ。
弟の立太子の記事を探しているのだろう。
そんな大事は国を挙げて発表するに決まっているのに、ライから王都の新聞が届くたび、見逃さないよう隅々まで読み込んでいるのだ。大変な場所に置いてきた弟の晴れ姿を、できれば見に行きたいのだろう。
「そういえば」と、ドロシーは話題を変えた。
「ローシ様は、結局パイをすべて食べてしまいましたね」
「ごめんね、明日はドロシーの好きな物を作るから。何がいい?」
「殿下の作ってくださる物は全部好きです」と一度口を噤み、
「でも、もしよろしければドーナツがいいです」
「ドーナツ?」
「はい。以前作って頂いた、粉砂糖がかかった、こういう穴の空いた」
ドロシーが真面目くさった顔のまま、指で輪っかを作り、穴から目をのぞかせると、クロッドは吹き出した。ドロシーはパチパチと瞬きする。
「殿下?なにかヘンでしたか?」
「ドロシーが随分かわいらしいものを選ぶから」
――かわいらしい。
ドロシーは全てを許すことにした。犬野郎の愚行も、子狐の小賢しさも許すことにした。実際には「かわいらしい」はドロシーではなくドーナツにかかっている修飾語だが気にしないことにした。




