人形令嬢の黒い婚約
ドロシー・ドロフォノスにとって、クロッド・イグルーシカは『遊び終われば壊す人形』だった。
第二王子の立太子が確定した時点で、クロッド王子を暗殺すること。
クロッドとドロシーの婚約は、そういった密約が王陛下と侯爵家の間で交わされた黒い婚約だった。この茶番が終わる瞬間にどうクロッドを殺そうかとワクワクしながら、ドロシーは婚約者生活をそれなりに楽しんでいた。
だからドロシーとの婚約を破棄した時点で――有力貴族であるドロフォノス家と手を切ると衆目の前で明言してしまった時点で、クロッドの運命は決まったのだ。彼の立太子は絶望的で、ドロシーに殺される運命だと。
なのに、あのときドロシーはとっさに婚約破棄を拒否してしまった。まるでクロッドの死を遠ざけるように。
――どうしてなのかしら。
薔薇の花弁が浮いた湯舟のなかで、ドロシーは目を閉じる。
ドロシーは長い間、クロッドを観察してきた。
獲物の動向を探るように、彼を見張り、追跡し、情報を集めた。
だから、クロッド・イグルーシカのことはなにもかも知っていた。
まだドロシーと婚約していない幼い頃、王陛下たちが鹿狩りに行くのを、彼は泣きながら止めていたそうだ。動物を遊びで殺すのがかわいそうだと言う。王陛下は臆病者だと彼を蔑んだ。今のクロッドが狩猟を趣味だと公言し、下手な演技で獲物を逃がしていることを、ドロシーは知っている。
婚約が決まって以降は、お茶会でも夜会でもこちらと関わろうとしない。その埋め合わせのようにドレスや宝飾品が贈られてくる。差出人は王宮となっていたが、流行の色味を取り入れたドレスやクロッドの外見的特徴を抑えた赤や銀の品物ではなく、黒い色のものが多かった。婚約前に交わした少ない手紙のなかで「黒をよく身に着ける」と書いたことを覚えていたクロッドが差出人を偽って送っているのだと、ドロシーは知っている。
王子妃教育が始まり、ドロシーは王宮に赴くようになった。あてがわれた王宮の部屋は側妃が指示したもので、狭く薄暗く裏庭は雑草がはびこっていた。ところが、いつからか裏庭に素朴で可愛らしい花が咲くようになり、少しずつ手入れされていることが分かった。ドロシーがいないときだけ現れ、大きな体を丸めて小さい花を愛でている後ろ姿が誰なのか、ドロシーは知っている。
クロッドに『真実愛する相手』などいないことも知っている。わざわざ女を雇って夜会に伴っていることも知っている。大げさなくらい横柄で高圧的な態度をとって自らの評価を下げていることも知っている。それによってドロシーが社交界で軽んじられず、むしろ同情的な視線を集めており、クロッドはその結果に満足していることさえも知っていた。
なぜそんなことをするのか。
彼の意図は分かっていた。でも意味は分からない。
――理解できないから、もうすこし知りたい。きっとただそれだけ。
ドロシーはそう結論付けた。
彼があまりに理解しがたい人間だから、もっと知りたくなったのだ。だから婚約を継続しようとしたり、刺客から身柄を奪ったりしてしまったのだ。
ドロシーの瞳からふっと光が消える。
――あの刺客たち。息があるうちに、もっと細かく刻んでやればよかった。
森で血まみれのクロッドの姿を見止めた途端、これまで感じたことがないほどの激情にかられた。身体中の血が沸き立つような熱さに突き動かされ、大好きな命乞いを聞く間もなく刺客は全員引き裂いてしまった。
あまりにも一瞬の惨劇であったため、気を失ったクロッドはなにが起こったかさえ分からなかっただろう。でもそれでいい。あんなものクロッドに見せてはならない。彼はきっと人間が細切れになるところなんて好きではないはずだ。
――どうせなら、もっとよいものをお見せしたい。彼の好むもの。美しいもの、愛らしいもの、優しいもの。
ドロシーは湯舟から上がり、温められた大理石の床を進んで大きな鏡の前に立つ。好きでも嫌いでもない自分の顔を眺め、緑眼をじっと覗き込む。
『これだから、ただ顔がいいだけの人形のような女など――』
ぎりりり。
思わず唇を噛んでしまう。
婚約破棄を宣言されたときに、顔がいい、と言われたことを思い出すと口角がムズムズして唇を噛んでしまうのだ。こんなふうになるのは彼だけ。
――わたくしの顔を、殿下は好んでいるのだろうか。もし好んでいるならどのあたりがお気に召したのだろう。顔以外にもどこか好きなところはあるのだろうか。
知りたい。
なにもかも知っているのにまだ足りない。彼の好きなものや、やりたいことや、こっそり隠している秘密まで知っているのに、全然足りない。
「ねえ、どうしてなのかしら」
ドロシーは鏡の向こうにいる自分に尋ねた。
――どうして、わたくしは彼のことをもっと知りたいんだろう。
「失礼致します、ドロシーお嬢様。皆様がお戻りになられました」
ちらりと目線をやれば、鏡越しに手下が深く腰を折る。
「王家は手を引きました。お望みの兎は貴方様のものです」
「…………」
「……お嬢様?」
「…………」
鏡に向かって、無表情でぎりぎりと唇を噛むドロシーを、手下や侍女は恐ろしそうに見ていた。
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