第20話 降臨と誕生と
そうしてアクセルと今後の事を話し合っていた時である。いきなり破水をしたのは。
生温かい羊水が下着を濡らす。レリアは思わず「あっ!」と声を上げた。
「どうした、レリア!?」
「破水、しました」
「何!?」
「まだお腹に痛みはありませんが、破水してはもう出てくるでしょう。すみませんが、ケビンさんを呼んできて頂けますか?」
「わかった、待っていろ!」
アクセルは慌てて出ていったが、レリアは三度目のお産だ。破水から始まるのは初めてだが、大体のことは心得ている。慌てる必要はない。
しばらくすると、アクセルがケビンと幾人かの経産婦を連れて戻ってきた。その中に医者はまだいない。
「大丈夫ですか!? どうしよう、今日は日曜でノルト村にも医者はいなくて……」
「落ち着いてください、ケビンさん。大丈夫ですわ。医者がいなくても子どもは産めます」
「ほら、ケビンちょっと避けて!」
カナという経産婦がレリアの前に現れる。彼女はおもむろにレリアの腹を掴むと、眉を寄せた。
「あんた……もしかしてこの子、逆子じゃないかい?」
「……え?」
逆子と言われて初めて気付く。そう言えば、先に産んだ二人とは胎動の位置がおかしかったことに。
「ほら、頭がここにある。……医者を呼んだ方がいいね。あたしらじゃあ手に負えなくなるかもしれない」
その言葉にいち早く動いたのは、アクセルだ。
「医者を連れて来る! 心配するな! 飛ばせばトレインチェまで、往復で五時間以内に戻れる!」
「アクセル様……」
「それまで、頑張ってくれ!」
そう言うとアクセルは一度レリアに触れると、そのまま口付けをする。ちゅ、と軽い音がして離れると、アクセルは風のようにその場を去っていった。
残されたのは、口付けしていた二人を見て顔を赤く染めるケビンと、お産の準備を始めるカナら経産婦。そこに息子のクロードが飛び込んできた。
「お母様!! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ、落ち着いて。逆子で難産になるかもしれないけど、心配しないで。今、アクセル様が医者を呼びに行ってくれているわ」
「ええ、今そこですれ違いました。お母様は、アクセル様と……」
「結婚することにしたわ。ごめんなさいね、何の相談もなしに」
「いいえ、そうするのが一番だと僕も思いました。おめでとうございます、お母様」
「ありがとう、クロード」
暫くすると、お腹がチクチクと痛み始めた。陣痛が始まったのだ。
「お母様……?」
「陣痛が始まったわ。クロード、手を握っててもらえる?」
「はい!」
大丈夫、とは言いつつ、内心は不安だ。逆子など初めての経験である。母子ともに無事でいられる保証などないのだ。出産というものは命懸けなのだということを、改めて実感した。
「お母様、僕がついています!」
「ええ、力強いわ」
震える手を、クロードが強く握ってくれた。それだけで安心感がまったく違う。
やがて、何度か来ていた痛みの波が、大きなものへと変わった。アクセルが戻ってくるにはまだ何時間も掛かる。医者は間に合わないかもしれない。
レリアは覚悟を決めた。
カナらによる、出産が始まる。
激しい痛みと共に息む。すると何度目かの息みの後に現れたのは……
「足が、出てきたよ!」
やはり、逆子だった。片足しか出ていない状況で、もう片方が引っ掛かっているらしい。壮絶な痛みがレリアを襲い、歯を噛み締める。
「だめだ、引っ張っても出てこない……」
カナが顔をしかめた。足が出てきても、今度は腕や頭で引っ掛かってしまうだろう。思った以上の難産である。
「レリア、頑張りな! 赤ちゃんも頑張ってるんだよ!!」
「うう、は、はいぃっ」
「お、お母様……っ」
しかし、医者でない彼女らにできることは限られている。意識が飛びそうなほどの激痛なのに、産まれてくる気配がない。アクセルが戻ってくるには、まだまだ時間が掛かる……そう思った時。
「レリア!! 大丈夫か!?」
アクセルが部屋に飛び込んできた。早い。まだ三時間も経ってはいない。街道は行かずに森を突っ切ったのだろうが、それにしても早かった。サニユリウスに多大な負担を掛けてしまったに違いない。
「医者は!?」
「ロレンツォが乗せて来ている! あいつなら、すぐに到着するはずだ!」
カナの問いにアクセルが答える。そして彼は、クロードが握っている手とは逆の手を握ってくれた。
「もう少しの辛抱だ! 頑張ってくれ、レリア!」
「は、い……!」
アクセルの顔を見られただけでほっとした。
彼の言った通り、すぐにロレンツォが医師を連れて現れる。その医師がレリアの状況を見て顔をしかめた。
「これは……腹を切って取り出すしかないな。時間が経ち過ぎては、母子共に危険だ」
そう呟き、淡々と準備を始める医師。青ざめるレリアに、医師は何か薬を飲ませてきた。
「痺れ薬と痛み止めだ。効いてくるまで数分。だが、完全に痛みを取るものではないから、頑張って耐えてくれ」
まさか、お腹を切られるなんて夢にも思わなかった。レリアは恐怖で震え始める。
「レリア……」
「アクセル様……怖い……」
「大丈夫だ、俺が付いている」
「怖いと思うと血圧が下がって痺れ薬が効かん。安心させてやってくれ」
医師はそう言いながら、レリアの手足をベッドに縛り付け始めた。恐らくは切開時に動かれては困るからであろうが、より恐怖が増してしまう。
「アクセル様、アクセル様……!」
「落ち着け、レリア! ずっと傍にいる! ずっとだ!」
カチャ、と何やら器具の音がして、レリアはアクセルとクロードの手をぎゅっと握った。
そして鋭い痛みがレリアを襲う。出産とはまた別物の、激痛だ。
「いやあああああっ!!」
「体を押さえつけろ!!」
医師の言葉に、レリアの肩はアクセルに押さえつけられた。飛び散る血を見て、ケビンが倒れそうになっている。そんなケビンにロレンツォが叫んだ。
「ケビン殿! 今一度、トレインチェに戻って治癒師を呼んで来たい! この街一番の早馬を貸してくれ! 俺のシラユキは疲れている!」
倒れそうになっていたケビンは指示を与えられ、シャキッと眉を吊り上げる。
「こっちです!」
二人は急いで部屋を出ていった。肩を押さえているアクセルが、レリアの顔を覗き込む。
「レリア、聞いているか!? 大丈夫だ! 子どもが生まれれば、すぐに治癒師が魔法で治してくれる!」
レリアは頷くことでそれに答えた。生まれさえすれば、この痛みとはさよならできる。それまでの辛抱だ。
レリアは痛みと戦った。先に飲んだ痺れ薬や痛み止めなど、まったく効いていない。もしかしたら少しは緩和されているのかもしれなかったが、なしと同意義に思えるほどの激痛だった。
「深く息を吸い込め! 酸素が欠乏すると、痛みが増すぞ!」
「レリア、深呼吸だ!」
「お母様!」
医師とアクセルとクロードが口々に言うも、痛みでそれどころじゃない。痛みを我慢するために、息を止めてしまう。
「レリア、我慢しなくていい! 痛ければ、そう声に出せ!!」
「痛い……痛いいいいいっ!!」
そう言ってすべての息を吐き出すと、自然と空気が肺に滑り込んできた。
「そうだ、そのまま息を吐け!」
「ふうううううううううっ」
「吸って! よし、そのまま続けるんだ!」
上手く深呼吸ができ始めたところで、医師の手が再び動き始める。地獄だ。お腹の中は一体どうなっているのだろうか。赤ちゃんは無事なのだろうか。
「頭が見えた。取り出すぞ」
冷静な医師の声が聞こえる。その瞬間、異物がお腹の中を駆け巡り、そして今まで以上の痛みがレリアを襲った。
「うううううううっ!! うううううう!!」
最早、獣のような声でしか痛みを訴えることしかできず、この痛みから逃げ出すことしか考えられない。
「頑張れ、もう少しだ!」
「お母様! 頑張って!!」
愛する者の声のお陰で、何とか耐え抜く。究極の痛みが過ぎると同時に、するりと何かがレリアの中から抜け出していった。そう、レリアの赤ん坊である。
「ふうう、ううう……」
声にならない声を上げてレリアは息を吐いた。まだお腹の痛みは続いている。だが、姿は見えないものの、赤ん坊の泣き声が聞こえて、レリアは笑みをもらした。
「うま、れた……?」
「ああ、生まれた! ……生まれた!!」
すぐにカナが赤ん坊を連れて来てくれた。顔の真横に小さな小さな体を置かれた我が子は、本当に愛らしい。
「可愛い……」
その瞬間、レリアの体から痛みが消えた。勝手に歓喜の涙が溢れ出し、言葉を詰まらせる。感動などというちんけな言葉では、言い表せられないくらいの感情が、波のように次から次へと押し寄せてくる。
「おめでとう。女の子だよ」
「うわぁ……妹だ。僕に、妹ができたのか」
目を細めて赤ん坊を見るクロードを、アクセルは上から見ていた。彼の、家族を。クロード以上に目を細めて。
「アクセル、様……」
「ありがとう、レリア。一度に娘と息子と妻ができるなんて、俺は幸せ者だ」
その言葉を聞くと、またも勝手に涙が溢れてくる。その嗚咽と共に、徐々に痛みが戻ってきた。溢れる涙で視界がぼやける。
「レリア……レリア?」
アクセルの声に、上手く反応できたのかどうか、わからない。血液が大量に失われているのを感じた。もうだめなのだな、と本能的に悟る。
(私は、こうやって死ぬ運命だったのね)
瞳を閉じると、目の前が七色の光に包まれた気がした。
先生、と叫ぶアクセルの声が聞こえる。お母様と叫ぶクロードの声が聞こえる。
不思議と恐怖感はなかった。鈍い痛みと外界からの忙しない声。
家族と一緒に過ごしてあげられない無念さが、少し頭をよぎっただけだ。
もう死ぬのだろう。
ロレンツォが治癒師を連れて戻って来るまで、体が持つとは思えなかった。
しかし、気持ちは充実していた。
レリアは絵を描き上げた時のような満足感のまま、深い眠りへと落ちていった。




