第18話 刃
王宮生活一ヶ月たった夜だった。
「少し歩かないか」
夕食後、セバスチャンがそう言った。珍しい誘いだった。普段は公務に追われ、夜は書類の山と格闘している彼が、散歩に誘うなど。
「何かありましたか」
「……息が詰まる」
短い言葉に、疲労が滲んでいた。私は頷いて、彼の隣に並んだ。
夜の庭園は静かだった。月明かりが石畳を照らし、噴水の水音だけが響いている。護衛は少し離れた場所を歩いている。二人きりの時間だ。
「軍の異動について、父上に報告した」
セバスチャンが低い声で言った。
「陛下は何と」
「調査を命じると。ただ、証拠がなければ動けないとも」
彼の横顔が硬い。焦りと苛立ちが見える。
「ハワードは狡猾だ。尻尾を掴ませない。オズワルドも同じだ。あいつらは表向き、何も違法なことはしていない」
「だから、待つしかないと」
「……ああ」
その言葉が、彼をどれほど苛立たせているか。私には分かった。
木立の間を歩いていた時だった。
風が変わった。
それは本当に一瞬のことだった。木の葉が不自然に揺れ、影が動いた。私の体が、考えるより先に動いていた。
「殿下っ」
セバスチャンの前に飛び出した。
背中に衝撃。熱いものが走る。けれど、致命傷ではない。それだけは分かった。
「ヴィオレッタ!」
セバスチャンの叫び声。同時に、護衛たちが駆け寄ってくる怒号。私は振り返った。
黒い服を着た男が、短剣を構えて立っていた。覆面で顔は見えない。男の目が、私とセバスチャンを交互に見た。
「くそ——」
護衛が迫る。男は追い詰められた獣のような目で周囲を見回し——そして、自分の喉に短剣を突き立てた。
「止めろ!」
セバスチャンの声が響いたが、遅かった。男は崩れ落ち、動かなくなった。
私は背中の痛みに顔をしかめた。服が濡れている。血だ。けれど、動ける。深くはない。
「ヴィオレッタ」
セバスチャンが私の肩を掴んだ。その手が震えている。
「なぜ——なぜ俺の前に出た」
「……考えるより先に、体が」
「馬鹿か君は」
声が震えている。怒りなのか、別の何かなのか。月明かりの下で、彼の顔が青ざめていた。
執務室に運ばれた。
医師が呼ばれ、傷の手当てが始まった。背中を浅く斬られただけで、縫うほどではないと言われた。けれどセバスチャンは、医師が去った後も私の傍を離れなかった。
「……痛むか」
「少しだけ」
「嘘をつくな」
彼は私の前に膝をつき、包帯の巻き具合を確かめた。その手つきは丁寧で、けれどどこかぎこちない。
「俺が不甲斐ないばかりに」
「殿下のせいではありません」
「俺の警戒が足りなかった。君を危険に晒した」
私は首を振った。
「私が勝手に飛び出したんです。殿下は——」
「だからだ」
セバスチャンが私の手を取った。強く握る。
「君が俺を庇って傷ついた。それが——」
言葉が途切れた。彼は目を逸らし、私の手を握ったまま黙った。
「……怖かった」
小さな声だった。
「君が倒れた時、心臓が止まるかと思った。俺は——」
続きは聞けなかった。扉が叩かれ、護衛の隊長が入ってきたからだ。
「殿下、報告がございます」
セバスチャンは立ち上がり、表情を引き締めた。けれど、私の手はまだ離さなかった。
「言え」
「暗殺者の身元を調査しておりますが、手がかりがございません。所持品は全て無銘のもの。顔も、記録に該当する者がおりません」
「自害した理由は」
「おそらく、口封じかと。捕らえられれば拷問される前に死ぬよう、命じられていたのではないかと推測します」
組織的だ。個人の犯行ではない。
「ハワード侯爵との関連は」
「……現時点では、証拠がございません」
セバスチャンの手に力がこもった。私の手が少し痛い。けれど、離してほしいとは思わなかった。
「引き続き調査しろ。何か分かったら、すぐに報告を」
「はっ」
護衛が去った後、沈黙が落ちた。
セバスチャンは窓辺に歩み、外を見た。月は雲に隠れている。
「証拠がなければ動けない。父上もそう言った。俺もそれは分かっている」
彼の声は静かだった。けれど、その奥に怒りが燃えているのが分かった。
「だが、君を傷つけた者を、このまま放置することは——」
「殿下」
私は立ち上がり、彼の傍に行った。背中が痛むが、構わなかった。
「私は生きています。傷も浅い。今は、証拠を集めることに集中しましょう」
彼は振り返った。その目が、複雑な色を帯びている。
「……君は、強いな」
「強くありません。ただ——」
私は少し笑った。
「諦めが悪いだけです」
セバスチャンの口元が、わずかに緩んだ。
窓の外で、雲が流れていく。月が顔を出し、庭園を照らした。
証拠がなければ動けない。けれど、証拠は必ずある。どこかに。
私たちは、それを見つけなければならない。
次に狙われるのが、誰であっても守れるように。




