第16話 蛇の巣
王宮生活二週間目の朝、私は編集部屋で資料と向き合っていた。
オズワルド・マリアンヌ。宰相補佐官。三十五歳。十年前に宰相府に入り、異例の速さで出世を重ねた。姉であるマリアンヌ侯爵夫人とは疎遠を装い、断罪の際も関与を否定。
表向きの経歴に、隙はない。
「お嬢様、こちらも」
リディアが新たな資料を持ってきた。アメリアが王都の情報網を使って集めてくれたものだ。
「オズワルド様は、侯爵夫人の断罪後も宰相府での地位を維持しています。むしろ、姉君との関係を絶ったことで信頼を得たとか」
賢いやり方だ。姉を切り捨てることで、自分だけは生き残った。
「でも、本当に関係を絶っているのかしら」
血の繋がりはそう簡単に消えない。ましてや、姉が築いた人脈や情報網を、弟が引き継いでいない保証はない。
昼前、気分転換に中庭を歩いた。
王宮の中庭は広い。噴水があり、季節の花が植えられ、貴族たちの散策路になっている。私は東側の木陰に腰を下ろし、持ってきた書物を開いた。
ふと、声が聞こえた。
低い男の声と、高い女の声。聞き覚えがある。私は本から顔を上げず、耳を澄ませた。
「——計画通りに進んでおりますの」
「結構。しかし、少々手ぬるいのではありませんか」
イザベラと、オズワルドだ。
木陰の向こう、バラの茂みの陰で二人が話している。私からは見えにくいが、声は聞こえる。
「あの女、予想より厄介ですわ。噂を流しても殿下は信じていらっしゃらないし」
「だから申し上げたでしょう。正攻法では無理だと」
「では、どうすれば」
「焦る必要はありません。手続きに則って、一歩ずつ。彼女を王宮から追い出す方法は、いくらでもある」
私は息を殺した。心臓がうるさい。
「イザベラ嬢。貴女の役目は情報収集と、小さな失態の積み重ねです。大きなことは私が引き受けます」
「……分かりましたわ」
「それから、王妃様への態度には気をつけなさい。貴女の立場が危うくなれば、私も動きにくくなる」
足音が遠ざかっていく。私はしばらくその場を動かなかった。
繋がった。
イザベラとオズワルドは、最初から共謀していた。間違った作法を教えたのも、噂を流したのも、全て計画の一部だ。
私を王宮から追い出す。その目的は何だろう。セバスチャンへの嫌がらせか。それとも——もっと大きな何かか。
午後、私は社交界の窓の新しい記事を書いた。
直接的な告発はしない。それは証拠がなければ危険だ。代わりに、間接的な牽制を選んだ。
『王宮に蔓延る影——信頼を装う者たちの素顔』
記事の内容は、過去の事例を引きながら、王宮内で行われた情報操作の手口を解説するものだ。特定の名前は出さない。けれど、読む者が読めば分かる。
「お嬢様、これを王宮内に配布するのですか」
「ええ。ただし、限定的に。王妃様のお目に触れる場所にだけ」
王妃は聡明な方だ。この記事を読めば、自分の周囲で何が起きているか、考え始めるはずだ。
夕方、王妃の私室前で騒ぎがあった。
私が通りかかった時、イザベラが王妃の部屋から出てくるところだった。その顔は青ざめ、唇を噛んでいる。
「イザベラ様」
声をかけると、彼女は私を睨んだ。あの完璧な微笑みは消えていた。
「……貴女ね」
「何のことでしょう」
「とぼけないで。あの記事、貴女が書いたのでしょう」
私は黙っていた。肯定も否定もしない。
「王妃様が、私の行動を調べるようにおっしゃったわ。茶会での作法指導のことも、噂のことも、全部」
イザベラの声が震えている。怒りか、恐怖か。
「侍女長の地位を剥奪されたの。王妃様のお傍にいることも、もう許されない」
私は静かに彼女を見つめた。同情はない。彼女は自分で選んだのだ。
「自業自得ではありませんか」
「……っ」
イザベラの目が燃えた。けれど、ここは王妃の私室の前だ。騒ぎを起こせば、彼女の立場はさらに悪くなる。
「これで終わりだと思わないで」
低い声で言い捨てて、イザベラは去っていった。その背中を見送りながら、私は考えていた。
彼女は駒だ。操っているのは別にいる。
夜、セバスチャンの執務室に呼ばれた。
彼は机に向かわず、窓辺に立っていた。振り返った目が、いつもより鋭い。
「イザベラの件、聞いた」
「……ええ」
「君がやったのか」
「私は記事を書いただけです。判断したのは王妃様です」
セバスチャンは黙った。それから、ゆっくりと近づいてきた。
「なぜ俺に相談しなかった」
「これは私の戦いです」
「だから一人で抱え込んでいいという理由にはならん」
声が低い。怒っているのだと分かった。けれど、その怒りの種類が分からない。
「俺は君の共犯者だと言ったはずだ。一人で戦うなら、その約束は何だったんだ」
私は言葉に詰まった。
確かに、彼はそう言った。対等な共犯者として隣を歩くと。けれど私は、つい一人で動いてしまった。頼ることが、まだ怖いのかもしれない。
「……すみません」
「謝罪がほしいんじゃない」
セバスチャンは私の前で立ち止まった。
「次からは、話せ。俺にできることがあるなら、させろ。君が傷つくのを、黙って見ているのは——」
言葉が途切れた。彼は視線を逸らし、髪をかき上げた。
「……とにかく、一人で抱え込むな。頼むから」
その声は、命令ではなかった。願いに近い響きがあった。
「分かりました」
私は頷いた。今度こそ、本当に。
部屋に戻る廊下で、私は考えていた。
イザベラは失脚した。けれど、オズワルドはまだ無傷だ。彼が本当の敵なら、これは始まりに過ぎない。
それに、イザベラの最後の言葉が引っかかる。
「これで終わりだと思わないで」
あれは単なる負け惜しみだろうか。それとも——まだ何か、隠された手札があるのだろうか。
窓の外で、風が木々を揺らしていた。嵐の前触れのような、不穏な風だった。




