第15話 捏造の種
王宮生活も一週間が過ぎた頃、空気が変わった。
廊下を歩くと、すれ違う侍女たちが露骨に顔を背ける。文官たちは私を見るなり囁き合い、貴婦人たちは扇の陰で笑う。一昨日までとは明らかに違う。
「お嬢様」
リディアが小走りで追いついてきた。その顔が強張っている。
「噂が広まっています」
「噂?」
「元悪役令嬢が第二王子殿下を誘惑した、と。婚約は殿下が騙されているだけで、本当は——」
続きを聞く必要はなかった。どうせ根も葉もない中傷だろう。
「誰が言い始めたの」
「分かりません。ただ、昨日の夜から急に広まったようで」
たった一晩で王宮中に。自然発生にしては早すぎる。誰かが意図的に撒いている。
昼前、セバスチャンの執務室に呼ばれた。
彼は机に肘をつき、難しい顔で書類を睨んでいた。私が入ると顔を上げ、書類を脇に押しやった。
「聞いたか」
「噂のことですか」
「ああ」
彼の声は硬い。怒っているのだと分かった。ただし、その怒りは私に向いていない。
「俺を誘惑した、だと。馬鹿げている」
「殿下」
「君がそんな器用な真似をできるわけがない」
褒められているのか貶されているのか分からない。私は眉を上げた。
「器用ではない、と」
「言葉が足りなかった。君は真正面からしか戦えない女だ。策を弄して男を落とすような真似は性に合わんだろう」
否定できなかった。確かに私は、搦め手より正攻法を好む。
セバスチャンは立ち上がり、窓辺に歩いた。背を向けたまま言う。
「弁明しろとは言わん。君を疑う理由がない」
「……証拠もないのに」
「証拠」
彼は振り返った。
「君が俺を誘惑した証拠がないのと同じだ。ないものを証明する必要はない」
それから彼は私の傍まで来て、不意に手を伸ばした。髪に触れる。乱れた一房を、そっと直すように。
「気に病むな。噂は潰す」
「……どうやって」
「俺のやり方でだ。君は君の戦いをしろ」
手が離れた。触れられた場所がまだ温かい。私は小さく頷いた。
午後、編集部屋でリディアと向かい合った。
「噂の出所を調べましょう」
私は羽根ペンを手に取った。情報戦は得意分野だ。社交界の窓を発行してきた経験がある。
「まず、噂の内容を整理するわ。いくつかの流言が混ざっているはずよ」
リディアが頷き、聞き込んできた情報を並べていく。
「元悪役令嬢が殿下を誘惑した」「婚約は本物ではない」「名誉回復も金で買った」「フローレンス家は没落寸前だった」——
どれも事実と虚偽が巧みに混ぜられている。完全な嘘ではないから、否定しにくい。
「この手口、覚えがあるわ」
「お嬢様?」
「断罪された時と同じよ。聖女の噂も、こうやって少しずつ真実を歪めて広められた」
つまり、同じ人間——あるいは同じ組織が動いている可能性がある。
「侯爵夫人は投獄されたはず。でも、その繋がりが完全に消えたわけではないかもしれない」
夕方、宰相府に書類を届ける用事があった。
本来なら侍女に任せる仕事だが、私はあえて自分で行くことにした。王宮の地理を覚えるため——という建前で。本当は、少しでも情報を集めたかった。
宰相府の廊下は、王宮の他の場所より慌ただしい。文官たちが書類を抱えて行き交い、誰もが忙しそうだ。
書類を届け、帰ろうとした時だった。
「おや、これは」
声をかけられた。振り返ると、一人の男が立っていた。
三十代半ばだろうか。金髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良い服を着ている。笑顔を浮かべているが、目が笑っていない。どこかで見た気がする——イザベラと同じ種類の笑顔だ。
「フローレンス嬢ですな。噂はかねがね」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「これは申し遅れました。私はオズワルド・マリアンヌ。宰相補佐官を務めております」
マリアンヌ。
その姓に、心臓が跳ねた。
「手続きに則ってご挨拶をと思っておりましたが、こうしてお会いできるとは。運命というものでしょうか」
彼は丁寧に頭を下げた。完璧な礼。けれどその目は、値踏みするように私を見ている。
「第二王子殿下のご婚約者として、王宮にお住まいになるとか。何かお困りのことがあれば、私でよろしければお力になりますよ」
イザベラと同じ言葉。同じ笑顔。同じ——目の奥の冷たさ。
「ご親切にありがとうございます」
私は当たり障りのない返事をして、その場を辞した。
部屋に戻り、すぐにリディアに調べさせた。
オズワルド・マリアンヌ。宰相補佐官。有能な実務官僚として知られる。そして——
「マリアンヌ侯爵夫人の、弟君です」
リディアの声が低い。
侯爵夫人。聖女を操り、私を断罪に追い込んだ黒幕。爵位を剥奪され、領地を追放された女。
その弟が、宰相府にいる。
「表向きは姉との関係を絶っていることになっています。侯爵夫人の断罪の際も、一切関与していないと」
だから処分を免れた。だから今も王宮にいる。
窓の外を見た。日が沈みかけている。
噂の出所。イザベラの不審な動き。そして、マリアンヌの名を持つ男。
点と点が、まだ線にはならない。けれど、何かが繋がり始めている予感がある。
私は羽根ペンを握り直した。
調べることが、また増えた。




