第13話 王宮の朝
名誉回復から一ヶ月。私は王宮の東棟に用意された部屋で、荷解きの最中だった。
「お嬢様、こちらの本はどこに」
リディアが腕いっぱいの書籍を抱えて訊ねてくる。資料用の書物が大半だ。情報紙の編集に必要なものばかりで、一般的な令嬢の荷物とは言い難い。
「窓際の棚にお願い。日が当たらない場所がいいわ」
「かしこまりました」
部屋は広い。安宿の何倍もある。天蓋付きの寝台、大理石の暖炉、絹のカーテン。第二王子の婚約者にふさわしい部屋だと、案内役の侍女は言っていた。その侍女は、私の顔をほとんど見なかったけれど。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
入ってきたのは王宮付きの侍女だった。銀の盆を持ち、完璧な所作で茶器を並べていく。けれど視線は私を避け、リディアのことは存在しないかのように扱う。
「ありがとう」
私が声をかけると、彼女は一瞬だけ眉を動かした。驚いたのか、不快だったのか。判断がつかないまま、侍女は無言で下がっていった。
「……あまり歓迎されていないようですね」
リディアが小声で言う。私は肩をすくめた。
「悪役令嬢上がりの成り上がりですもの。仕方ないわ」
「お嬢様」
「事実よ。社交界では名誉回復されても、感情はそう簡単に変わらない」
分かっていた。王宮で暮らすということは、新たな戦場に足を踏み入れるということだ。安宿で一人、ペンを握っていた頃とは違う。今度は衆人環視の中で生きていかなければならない。
「でも」と私は続けた。「ここが私の居場所になるなら、慣れるしかないわね」
昼過ぎ、セバスチャンから呼び出しがあった。
執務室は王宮の中央棟にある。廊下を歩くたびにすれ違う文官や侍女たちが、ちらちらとこちらを見ては目を逸らす。噂をしているのだろう。声は聞こえないが、視線が雄弁に語っている。
扉を叩くと、聞き慣れた声が応じた。
「入れ」
執務室は書類の山だった。セバスチャンは机に向かい、羽根ペンを走らせている。私が入ると顔を上げ、ペンを置いた。
「待たせた。少し付き合え」
「何かありましたか」
「見せたいものがある」
彼は立ち上がり、執務室の奥の扉を開けた。続き部屋があるらしい。私は首を傾げながらついていった。
扉の向こうは、小さな書斎だった。窓際に机。壁一面の書棚。そして、見覚えのあるものがいくつか。
「これは……」
「君の仕事道具だ。安宿から運ばせた」
羽根ペン。インク壺。あの消失インクも。原稿用紙の束。そして、創刊号から最新号までの「社交界の窓」が、丁寧に製本されて並んでいた。
「王宮では何かと目がある。自室で堂々と編集作業をするわけにもいかんだろう。ここなら俺の執務室の続きだ。誰も不審には思わない」
私は言葉を失った。
彼は私が情報紙を続けると言った時、当然だと笑った。けれど、それを実現するための場所まで用意してくれるとは思わなかった。
「……いいのですか」
「何がだ」
「第二王子の執務室に、私の編集部を置くなんて」
セバスチャンは肩をすくめた。
「共犯者の仕事場は近い方がいい。それに——」
彼は一度言葉を切り、視線を逸らした。
「王宮で君の居場所がないなら、俺が作る。それだけだ」
淡々とした声。けれど耳の先が少し赤い。私は笑いをこらえた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。成果で返せ」
午後、王妃主催の茶会があった。
婚約者として挨拶をするのが目的だ。セバスチャンは公務で同席できないと言っていた。一人で乗り込むしかない。
控室で待っていると、一人の女性が近づいてきた。銀髪を優雅に結い上げ、淡い紫のドレスを纏っている。整った顔立ち。完璧な微笑み。
「初めまして。イザベラ・ウィンターと申しますわ。王妃様付きの侍女長を務めております」
侍女長。王妃に最も近い侍女ということだ。私は姿勢を正した。
「ヴィオレッタ・フローレンスです。本日はよろしくお願いいたします」
「まあ、ご丁寧に」
イザベラは扇で口元を隠しながら笑った。
「噂はかねがね伺っておりますわ。あの名誉回復裁判、素晴らしい戦いでしたこと」
「恐れ入ります」
「王宮は何かと不慣れでしょう。困ったことがあれば、いつでもお声がけくださいませ。私でよければお力になりますわ」
親切な申し出。私は素直に頭を下げた。
「ありがとうございます。心強いです」
イザベラはにっこりと笑った。その笑顔は完璧で、文句のつけようがない。
ただ——一瞬だけ、目が笑っていなかった気がした。
茶会は無難に終わった。王妃陛下は穏やかな方で、私を温かく迎えてくださった。けれど周囲の令嬢たちの視線は冷たいものが多かった。社交界の記憶はまだ新しいのだろう。
部屋に戻る廊下。曲がり角で、声が聞こえた。
「——あの方が第二王子殿下の婚約者ですって?」
「信じられませんわ。悪役令嬢だったのでしょう?」
「名誉回復されたとはいえ、ねえ」
侍女たちの声だ。私は足を止めた。
「殿下も何を考えていらっしゃるのかしら。もっとふさわしい方がいらっしゃるでしょうに」
「きっとすぐに飽きられますわ」
「そうよ。あんな成り上がり——」
私は静かに息を吐いた。聞こえていないふりをして、足音を立てずに引き返す。別の道を通って自室に戻った。
リディアが心配そうに私を見た。
「お嬢様、お顔の色が」
「大丈夫よ」
嘘ではない。傷ついてはいない。こんな言葉、断罪された日に比べれば何でもない。
ただ、王宮が新たな戦場だということを、改めて実感しただけだ。
窓の外を見た。月が昇り始めている。
あの日、安宿の窓から見た月と同じはずなのに、どこか違って見える。
ふと、イザベラの笑顔を思い出した。あの一瞬の、目に届かない笑み。私の勘違いだろうか。
考えすぎかもしれない。けれど、あの頃から学んだことがある。
違和感を無視してはいけない。




