155 工程内不良とエンジンと
「それで、空を飛ぶ話はどうなったんですか?」
ニックは手を止めずにスティーブに訊いた。
「ニックがその話に興味があるとは思わなかったよ」
スティーブはマッチを擦ると、ニックが用意している蚊取り線香に次々と着火した。
場所は蚊取り線香の品質検査を行う検査室である。二人は製造した蚊取り線香を無作為に抜き取り、その燃え具合を確認するために、検査室に持ってきていた。さらには、マッチの検査も一緒に実施しているのである。
「若様、俺だって空を飛ぶことには興味があるんですぜ」
「昔、馬鹿と煙は高いところが好きだって言ってなかった?」
スティーブは蚊取り線香から立ち昇る煙を指さした。ニックは過去の発言の意味を説明する。
「そりゃああれですよ、他の領地の貴族が横柄だから言ったまでの事で、俺だって空を飛んでみてえんですよ」
「その気持ちはよくわかる。あ、それはそうとこの記録用紙に今回の検査したロットの記入をお願いね。僕はどのロットを持ってきたのか知らないから」
「あ、はいはい。マッチがこれで、蚊取り線香がこれで」
ニックは一旦話を中断して、検査した製品のロットを記入した。こうした検査の記録が、後々市場回収となった時に範囲を特定することを可能にしているのである。トレーサビリティという概念だ。
「マッチも蚊取り線香も品質に問題がないようでなにより」
「まあ、工程内不良はあるんですがね」
「後工程に流出してないからいいよ。工程内不良を無くせたらもっといいけど」
全部が良品になることはないと理解しているスティーブだからこその言い方であった。これが単に数字しか見ていない経営者だと、不良はゼロにしろという無茶な命令をしてくる。どんなに精密な機械を使ったとしても、毎回同じものが出来ることなどないのだが、それは経験した者にしかわからないのだ。
工場での工程内不良は各工程で発生している。手直し可能なものから、不可能なものまで多岐にわたるので、そのすべてをゼロにするのはとても困難だ。改善活動を継続して実施しているため、改善された事例もあるが、工程内不良の多くはヒューマンエラーであり、それを対策するのは難しかった。
ゴーレムを使役してしまえば、それは解決するのかもしれないが、それでは住民の雇用という問題が発生する。従業員としても、あまりヒューマンエラーが多い場合、スティーブがゴーレムに切り替えて解雇されるのではないかと思って、みな気を付けるようにはしていた。まあ、それでもヒューマンエラーはなくならないのだが。
「それで、空を飛びたいって?」
「そうです。男たるもの一度は自由に空を飛んでみてえじゃねえですか」
「そこは男も女も関係ないと思うけど」
「そうですかねえ。うちの奴なんか空を飛ぶロマンなんてわからねえと思いますがね。空を飛ぶことに使う金があったら、ぴかぴか光るものを買うと思いますぜ」
「まあそうか」
スティーブはニックの奥さんを思い出して納得した。だが、彼女が女性代表というわけではない。
「そんな一斑を見て全豹を卜すようなことを言わないの。他の女性は空に興味があるかもしれないじゃない。現に聖女なんかは興味津々だよ」
ユリアは宗教的に空に興味があるので、飛びたいというわけではなかった。なので、ここで紹介する事例としては間違っているが、ニックは当然そんなことには気づかない。
「そうかもしれませんね。逆に男でも空を自由に飛びたいと思っていないやつもいるかもしれませんね」
ニックはそう言って納得した。
「気球が出来たら乗ってみるかい?」
「是非ともお願いします。というか、若様と一緒じゃねえと、落ちた時が怖いですぜ」
ニックは熱気球のスケッチを見たことがあるが、空から落ちたら助からないことは理解できた。
「そうだね。落下したときに備えて、落下傘でもつくるか」
「ラッカさん?」
「人名じゃないよ。落下する時の速度を、空気抵抗を使って減速させるんだ。裁縫部門に大きな布を作らせてみるかね」
スティーブはパラシュートを試作してみようと思った。空を飛ぶようになった場合、ニックの言うように落下事故は必ず起きる。その時に、生還する仕組みを作っておかなければと思ったのだ。
「そのうちエンジンを積んだ飛行機なんかも登場するだろうし、パラシュートのノウハウも作っておいて損はないね」
「若様はまた知らない言葉を使う。エンジンやら飛行機やら」
「エンジンは前に話さなかったっけ?」
「いや」
ニックにエンジンの話をしていなかったので、スティーブはエンジンについて説明をすることにした。魔法でレシプロエンジンの断面を作り出す。手でピストンを上下させてその仕組みを説明した。
ニックはエンジンの仕組みに釘付けで、スティーブの説明など頭に入ってこなかった。シリンダー、コンロッド、ピストン、クランクシャフトはどれも高精度で作られ、動きがとても滑らかだったのである。
「とまあ、これがエンジンの仕組みなんだけど。ってニック、聞いてる?」
スティーブはニックが金属部品に集中して話を聞いていないことに気が付いた。ニックもようやくスティーブに話しかけられて、意識が金属部品からスティーブにうつった。
「若様、何か言いましたか?」
「言ったよ。ニックがエンジンのことを知らないっていうから、説明していたんだけど。その様子だと全く聞いてないね」
「勿論です」
胸を張ってこたえるニックを見て、スティーブは額に手を当てた。
「はぁ。まあいいよ。これはまだ研究段階であって、部品加工の依頼は来ないからね。それに、僕らだけでこれを実用化するのは無理だから」
「いつも不思議なんですが、若様はどうして新しいものを提案するのに、自分で実用化までたどり着けないんですか?」
「それは、僕が凡人だからだよ。王立研究所の天才たちとは違うんだ」
スティーブの知識はあくまでも前世の学校の授業などで得た知識であり、それを異世界で自分一人で再現しろと言われても無理な話であった。理論を知っていても実践は出来ない好事例である。
「まあ、若様が凡人なら他の人たちなんて何になるんだって話ですけどね。で、このエンジンっていうやつを作ってみようとは思わないんですか?俺はとっても作りたいんですが」
「うーん」
スティーブは期待に満ちたニックのまなざしに、簡単に否定することが出来なかった。ただし、エンジンの研究ともなれば莫大な費用がかかるし、それなりの技術者も必要となる。アーチボルト領でそれをするにはかなりのリスクがあった。多分、ブライアンの許可も出ないだろう。
そして悩んだ挙句、一つのアイデアが浮かぶ。
「オルガンでも作ってみようか」
「オルガン?」
日本のオルガンといえば、後にエンジン生産にも進出し、分社化したのちにバイクの生産でも有名になった会社がある。それを思い出したのだ。
ピアノでもよかったのだが、ピアノの仕組みを理解する前に、オルガンの方が楽だろうということでオルガンを提案した。オルガンは古くからある楽器であり、カスケード王国にも存在する。そして、その生産方法をスティーブが見学することで、作業標準書を作成して自分の領地でも再現できる。なので、まずはオルガンから作ってみようというわけである。
それがうまくいけば、次はピアノの予定だ。なお、ピアノはここには存在しないので、一から設計することになる。
そして、ニックは楽器に触れる機会がないので、オルガンを知らない。
「それについては、あとで一緒に工房を見に行こうか。まあ、マッチの生産が軌道に乗って、工程内不良を今よりも50%削減出来たらご褒美っていうことで」
「工程内不良を半減ですか。そりゃまた厳しい」
「マッチに限ってだよ。他の既に生産が安定している製品までやれっていうわけじゃないから」
新規立ち上げ製品は工程内不良が多い。玉成が出来ていないためだ。積み木や家具も最初のころは不良の山だったのだが、作業者の習熟だったり加工に治具を採用することで、不良低減を実現してきた。
マッチに関しては新規の工法もあって、過去の経験が中々活かせていないため、改善の余地はかなりあるのだ。
「まあ、仕事でやらなきゃいけない不良の削減で、追加のボーナスが出るんですからやりますけどね」
「それが出来たらゆくゆくはエンジンだから、頑張ってね」
「遠いんだよなぁ」
いつ作れるかわからないエンジンに、ニックはため息をついた。
そんな話をしているうちにも、蚊取り線香は燃え続けていた。六時間程度燃え続けるため、ずっとここで監視しているのも辛いので、スティーブとニックは食堂に移動する。昼休みの時間はとうに過ぎており、今食堂にいるのは食堂のスタッフと、昼休みの時間帯に機械のメンテナンスをしていた工機部門の社員くらいだった。
マイラは食堂の一角で何やら帳面とにらめっこをしていたが、スティーブがやって来たのを見ると挨拶に来た。
「社長、お疲れ様です」
「ご苦労様。何か問題でも?」
「そうですね。問題といえば社長が品種改良した果物がどれも人気で、いつも品切れになるということでしょうか。エマニュエル商会に代わりの果物を仕入れるように依頼してますけど、どこも輸出する前に自分の領地で消費しちゃうとかで、利用者の不満が高まっています」
「えっ」
特に問題があるとは思っておらず、挨拶程度に質問したら、本当に問題があってスティーブは驚いた。
「たしかに、ありゃうめえですからね」
と、ニックも同意する。
リンゴ、ミカン、ブドウ、イチゴ、スイカ、トマトなど野菜や果物の品種改良が進んでおり、味もかなり向上していた。本来の目的は収穫量の増加なのだが、まずいものを沢山つくっても仕方がないということで、味にもこだわった品種改良をしてきた成果だ。
その結果、従来種は駆逐されつつあるのだが、まだ全部が切り替わったわけではない。それに、元々農業に適さないアーチボルト領では、収穫高はとても少なかった。加えて、領民は農業ではなく工業に従事する比率が高く、領内の需要を満たすことが出来ていないのである。
じゃあ輸入かといえば、他領でも人気が高いために輸出される分が不足しているのだった。
「商品作物を作ることを父上にお願いしてみるよ」
とスティーブはこたえた。食い物の恨みは恐ろしいのである。不満が小さいうちになんとかしようというわけだ。旧カーティス男爵領であれば生産は問題ないはずであり、苗木はスティーブが量産すればすぐにでも作れる。
なお、品種改良はシェリーからも依頼されているのだが、南方のメルダ王国ではカスケード王国の研究結果をそのまま適用できず、時間もかかるのでスティーブはそれを無視していた。
それに、メルダ王国が飢餓に見舞われているわけでもない。単に美味しいものが食べられるようになりたいだけなので、時間がかかるがそちらで研究してくださいという態度なわけだ。言うと何倍にもなって返ってくるので、無視という形になってはいるが。
スティーブに一礼してマイラは下がった。
丁度食事が運ばれてきて、ニックは笑った。
「美味いの、不味いのって言えるようになったのも若様のおかげなんですがね。ちょっと前までは、腹がふくれるなら味なんて気にしなかったんですから」
「スープに塩味が付いているだけで嬉しかったからねえ」
と、スティーブも昔を思い出す。
今、味で不満が出るというのは、領地改革がうまくいっている証拠であり、それに非常に満足したのであった。
いつも誤字報告ありがとうございます。




