125 魔法瓶
ある晴れた日、屋敷の庭でスティーブは自分の家族と、シリルの家族とで集まり、子供たちを遊ばせていた。
屋敷の庭はスティーブによって土をごっそり入れ替えられており、青々と芝生が茂っていた。子供が転んでも怪我をしないようにしてあるのだ。スティーブの子供も、シリルの子供もまだつかまり立ちが完全には卒業出来ておらず、転びやすかったのである。
そんな子供たちを見ているのは妻たちであり、スティーブとシリルは仕事をしていた。
クリスティーナとナンシー、それにアイラは自分の夫をあきれ顔で見ている。
「アイラ、あなたの夫も仕事中毒ね」
クリスティーナがスティーブとシリルを指さす。
「ハハハ。まあ、私がこうして貴族としての生活が出来るのはそのおかげですから。それに、必ず週に一日は休みをとって、子供の面倒を見てくれるんですよ。話に聞いている他の貴族に比べたら、子供と向き合ってくれていると思います」
「そうだな。クリスも旦那様やアーチボルト家を基準に考えるからそうなるが、自分の子供のころを思い出してみるといい」
ナンシーに言われて、クリスティーナは自分の子供時代を思い返す。当時のマッキントッシュ伯爵は領地に中々帰ってこずに、夫婦そろって王都で仕事をすることが多かった。たまに帰ってきても、領地の家臣たちと会ってばかりで、クリスティーナと一緒に食事をすることは少なかったのである。
ある程度大きくなって、一緒に王都に行くようになってからは、一緒にいる時間があったが、それは親としての役目を果たしてくれるわけではなく、自分の娘の婚約者探しのために一緒にいるというものであった。
そう考えれば、オムツを洗うスティーブの方が、よっぽど親らしいことをしていると言える。
アーチボルト家に来てから長い時間が経っており、いつの間にかクリスティーナの考えも、家族が常に一緒にいるアーチボルト家が基準となっていたのだ。
「望みすぎですかね?」
とクリスティーナは二人に訊いた。
「いいえ。ララの研究では幼少期に親との時間が長いほど、優秀な子供になるというものがありました。まだ研究途中ですが、貴族社会の在り方に一石を投じるものではないでしょうか」
とアイラがこたえた。これについてはまだ研究例が少なく、研究途上でありその理論が正しいのかどうかはこれからさらに追加の事例を確認していくことになっているのだが、発表と同時に大きな衝撃となった。
これにより少し社会的な動きがあったのだ。貴族の親が子供との時間を作ろうとし始めたのである。もともとやっていたダフニーなどは、他の母親から相談を受けるようになっていた。
さて、そんな妻たちの視線をうけながら、スティーブとシリルが何をしているかというと、魔法瓶の実験であった。
スティーブの魔法でステンレス製の魔法瓶を作り、魔法瓶ではない甕との温度の変化を比較しているのである。
朝、お湯を作ってそれぞれの器に入れて、庭に持ってきて時間が経つのを待っていたのである。
甕に入ったお湯は既に湯気は出ておらず、スティーブの魔法で温度を測定すると、気温と同じ温度である25℃まで下がっていた。しかし、魔法瓶は蓋をあけると湯気が出る。三時間経っても85℃を維持していたのである。
「成功ですね」
シリルがお湯をコップに出して、その温度を体感する。
「問題は量産できないことか」
一般的な魔法瓶は二重構造になっており、内筒と外筒の間の空間を真空にする。
なぜそうするのかといえば、熱の移動である「熱伝達」を遮断するためである。温度が下がるのは熱が移動するためであり、それは熱伝導、対流、放射の3つからなっている。
熱伝導は分子運動である。加熱されて分子運動が激しくなり、分子が衝突するようになると、高エネルギーの分子から、低エネルギーの分子にエネルギーが移動して、熱が移動することになるが、真空では空気の分子がないため、この熱伝導が発生しない。
対流は熱くなった空気が膨張し浮こうとする時に、熱伝導によって周囲に熱を伝える現象である。これも空気が存在しない真空では発生しない。
放射は熱が電磁波にのって伝わる現象である。真空状態では熱が伝わらないのであれば、太陽の熱は宇宙空間を通って地球に届くことは無い。しかし、実際には太陽の熱が地球に届いているのは、熱が赤外線の電磁波にのって伝わってくるからである。魔法瓶はこの放射熱が逃げるのを防ぐために、銅や銀などを使って反射させて逃がさないような仕組みがある。
これらは真空があってのことなのだが、真空を作り出すのが容易ではない。そして、その真空の中で魔法瓶に栓をろう付けしなければならないのだ。日本では安価に売られている魔法瓶の水筒も、異世界でつくるとなると大変なのだ。
なお、今回はスティーブの分離の魔法で、魔法瓶の空間から空気を分離して真空を作っている。溶接機も魔法で作れるので、真空炉中ろう付け機も作成は可能だ。なお、溶接とろう付けは別物であるという考えもあるが、産業魔法には溶接のカテゴリーにろう付けも含まれていたので、真空炉中ろう付け機がつくれるのだ。
ただし、真空状態で栓をしてろう付けをしようとしたら、どうやって作業をするのかという問題があった。
ボトルの抵抗溶接もスティーブの魔法で抵抗溶接機を作る必要がある。抵抗溶接というのは一般的に知られているのはスポット溶接だ。そのほかにも、鉄板を丸めてパイプを作るときに、抵抗溶接で両端を溶接して円筒にする。抵抗溶接機は魔法で作れても、鉄板を丸める設備が作れないのだ。
ということで、この魔法瓶についても、オクレール商会から貴族相手に売る予定である。珍しい以外にメリットは無いので、どこまで売れるかはわからないが。
今回、魔法瓶の試作をしたのは、目に見えない分子運動や、熱の移動についての説明をするために、数値が欲しかったためである。これをシリルが報告書にまとめて、王立研究所に送る予定であった。
確認が丁度終わった時、イザベラがハイハイしながらスティーブのところにやってきた。
「イザベラ、おいで」
スティーブが抱っこすると、イザベラは泣き出した。
それを見て、ナンシーが慌てて走ってくる。ナンシーが抱っこすると、イザベラは泣き止んだ。
スティーブが苦笑いしながらシリルに話しかける。
「いまだに僕が抱っこすると泣くときがあるんですよね」
「うちもですよ。乳母が抱っこしても泣かないのに」
「子供がどうやって男女を見分けているのかを調査するのはどうでしょうか?」
「次の子供が生まれるまでに研究結果が出るとよいのですが」
父親同士で子育ての悩みを話し合うが、結局その研究をすることはなかった。
イザベラを抱っこしながら、ナンシーが魔法瓶のことを訊いてくる。
「旦那様、この筒は?」
「魔法瓶っていって、中のお湯が冷めにくい水筒なんだ。冷たい水を入れれば冷たいままだし」
「お湯が冷めない魔法なのですか?」
「いや、科学だよ」
科学と聞いてナンシーは首をひねる。
「魔法ではないのにどうして魔法瓶なのですか?」
「それは魔法のような冷めない瓶だからだね」
魔法瓶という言い方は日本では一般的であるし、魔法がないから混乱するようなことは無いが、魔法が存在する世界では混乱を招く。
別の言い方を考えるべきだったなとスティーブは反省した。
「魔法も使わず温かいお湯をそのまま保存できるのであれば、寒冷地で活動する軍には重宝されそうですね」
「そういう考えは思いつかなかったなあ」
軍人であるナンシーらしい発想にスティーブは感心した。
ただ、量産化出来ないので、軍からの注文にもスティーブが応えることになるが、それでは領地の産業としては成り立たない。
そうしたものが沢山あって、スティーブとしては悩みの種だった。アーチボルト家には利益が入ってくるが、領民たちにはその恩恵がない。食糧自給率が100%近辺であり、天候不順にでもなったらすぐに食糧不足になるような状態なので、もっと工業生産を増やして金で食糧を買える状態にしておきたいのだ。
工場を拡張した結果、増加した作業者とその家族の分だけ必要な食糧が増えてしまったため、相変わらずその辺は改善されていなかった。
さらに、温泉旅館の宿泊客のための食事があり、自領内だけで食糧を賄うのは厳しいのだ。
いざ、食糧不足で工場の利益だけでは食糧を買えないとなれば、領主の資産を取り崩して購入することになるので、お金はどれだけあっても困ることは無い。量産化は無理だが、大量に買ってくれるところはあってもいいかと考え、スティーブはシリルに軍が買うかを訊いてみた。
「軍が買いますかね」
「ナンシー殿の言うように、寒冷地の部隊は欲しいでしょうね。後は予算との相談でしょうか」
「貴族相手のぼったくり価格だと、買ってくれないでしょうね」
「今のところは真似が出来ないから、ぼったくりもなにもなくて、売り手の言い値が適正価格ですけどね。まあ、その方がなんとかしようと研究予算をつけてくれるのではないでしょうか」
温泉の時のように、それを求める声が大きくなれば、国としても無視することは出来ずに、研究予算をつけてくれることになる。
「そういえば」
スティーブはステンレス製の魔法瓶ばかりを考えていたが、ガラス製の魔法瓶であれば、蒸着装置もあることだし、真空状態を作り出すことさえできればなんとかなる。
前世でガラス魔法瓶生産ラインの治具の見積もりをしたことがあり、工場のラインを見学したことがあった。それを思い出したのだった。
そして、シリルに二重ガラスの魔法瓶を作ってみせた。
「ガラスならガラス職人に手吹きさせて、それを外筒で覆えばいいですね」
なお、JISではまほうびんという規格がある。そこにはガラス製まほうびんとステンレス製まほうびんが規定されている。スティーブはその規格について詳しくないため、自分が使ったこと、見たことがある魔法瓶での話をしているだけだ。
「それでは、この領地で魔法瓶を量産できるということですか」
「いや、ガラス職人がいないから、それは難しいね。どこかの工房に弟子入りさせて、技術を持ってきてもらうくらいかなあ」
日本でもガラス製の魔法瓶の生産が開始された当初は、国内のガラス職人ではガラス製の中瓶が作れなかったため、外国から職人を招いて生産をしていた。王立研究所の研究を元に、どこかの工房で生産に成功したならば、そこに弟子入りでもさせようかと考えていた。
そして、真空についてもJIS規格がある。真空とは空気が無いことではなく、大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間内の状態である。それは低真空から極高真空までの5段階が規定されており、それは空気の有無ではない。
なので、真空ポンプについても手作りすることが出来る。学校の実験でもやるような、注射器に簡易の弁をつけて、容器内から空気を吸いだして、外に排出する仕組みを作ればいいのだ。それで減圧出来れば真空の出来上がりというわけだ。
今でこそ百円ショップで買えるようなものであるが、精密加工も出来ずに、樹脂成形品も存在しないような世界では、それを再現するのは苦労する。ただ、その構造を伝えることは出来るので、スティーブはシリルの持っているメモ帳に、真空ポンプのアイデア図を描いた。
「魔法で作った魔法瓶の売上金を使って、ガラス工房に何人か送り込もうかな」
「その時は協力しますよ」
シリルは工房の紹介を請け負ってくれた。
そして、魔法瓶は案の定、軍からの注文が入った。寒冷地の軍人のためにスティーブは、お手頃価格で軍に販売したことで、軍から大変感謝された。
軍は国に働きかけて、スティーブに対して騎士爵が与えられることになった。これは、アーチボルト子爵を継げない子供に与えて、貴族とさせることが出来るものである。
なお、貴族相手にはぼったくり価格で販売した。軍の魔法瓶の横流し防止のために、魔法瓶にシリアルナンバーを刻印したので、スティーブの目を盗んで横流ししようという不届きものは出ていない。
いつも誤字報告ありがとうございます。




