狂いゆく自我
侍女達に自らの身支度を整えさせたシンクレアは輿を用意させ、クラリスの館へと向かった。
隆之がシンクレアの元を去ったその日以来、カーネルは王の住まう宮殿建築に携わり、彼女の身の回りの世話はイザベラと言う名の侍女が代行している。
癖のある茶髪を後ろに一つで結んだイザベラはシンクレアの魔力を受け入れる事が出来た数少ない人間の雌だ。
イザベラは瑣末な事への気配りの行き届いた娘ではあったが、やはりカーネルの洗練された所作には遠く及ばなかった。
シンクレアはイザベラに不満を覚える訳でもなく、興味が湧くことも無い。イザベラが粗相をすれば、殺して代わりを他の者に命じるだけである。
今のところは大過なく仕事をこなす娘を殺す理由が無いだけであろう。
スフィーリアに住まう人間達は全て宮殿の建設場所に集められ、道中に人影は存在していなかった。
シンクレアは閑散とした町並みを眺め、喧騒の無い町並みが齎す普段は感じることの出来ない音の調に心地よさを覚えていた。
輿を担ぐ人足の足音と息使い、青葉が互いに触れ合う微かな音、鳥たちの羽ばたく音すらも彼女には聞こえる気がしてならない。
シンクレアは傍にある巾着の中から小さな粒を手に取り、そっと足元に撒いていく。その様子は小川の水に手を泳がす美女の如き妖艶さを醸し出していた。
シンクレアの輿には職人が二十年の歳月を掛けて織り出した敷物が敷かれており、その敷物の上で数羽の小鳥がシンクレアの撒いた黍の実を啄ばみ始める。
(そう言えば、あの者の煎れた紅茶を久しく飲んでおりませんわね……あの者? 何故にあの者の顔が思い浮かぶのでしょうね。私の奴隷に過ぎなかったあの者は王へと覚醒を遂げたと言うに……王に茶を煎れさせるなど、僭越の極みと言うものでしょう? そうではありませんか、シンクレア?)
シンクレアの思考は時を経る毎に隆之のことへと特化していた。中級魔人に過ぎなかった【魔王の美酒】が魔王と呼ぶべき魔力を開放した事で多くの魔人達の抗い切れぬ本能を刺激している。
弱き者を殺戮することに刺激を覚え、淫靡な悦楽の日々を過ごすことに疑問を覚えない魔人と言う存在の一番の目的は強き次代を残すことだ。
爵三位以上の上級魔人達は自分よりも魔力の劣る者とは子を生そうとは考えない。嘗てそれを望んだ愚物は一人だけであり、その者の名を【天極のアナスタシア】と言った。
アナスタシアは【明星のスルド】の上位者であったにも関らず、下賎な人間の男との間に子を設け、今はその行方を晦ましている。
そもそも、上級魔人達へ子を与えることの出来る存在が魔王であり、世界に破壊と混沌を齎す邪悪の化身等は人間達が生み出した流言でしかない。
更に続けて言うならば、上級魔人達にも子を成したいと望む相手を選ぶ意思はある。例え、ある魔人が魔王と覚醒してたとしても、他の上級魔人達が従わない事例は多々あったのだ。
意外なことではあるが、歴代の魔王の中で人間を殺し尽くせと命じた魔王はメリウス王のみである。
メリウスの子を宿す為に多くの魔人達が動き、メリウスの寵愛を受けようと人間を殺すことを競い合った結果として、人間達が滅びかけただけ……
言葉にすれば、それだけで済むのであろう。
(されど、純粋な魔力の結晶体が人間を名乗るとは……冗談にしても笑えませんわ。他の魔人達が許したとしても、私は許しません。タカユキ……御身は王ですわ。私達を統べる偉大なる王。数十年に及ぶ統治……かのメリウス王以来の偉業を約束された者が安穏に過ごすことなど許されると思いますの? 駄目ですわね……何を思い、何を行動に移しても、その全てがあの者へと向かう。本能の赴くままに生きる。それが魔人の運命と言うべきなのでしょうね……)
「シンクレア様、クラリス様の館に到着致しました」
イザベラの声と共に小鳥達は飛び去り、シンクレアの意識も目の前の館に移る。
クラリスの館の玄関の前で輿を降りたシンクレアはクラリスに仕える侍女達の案内で館の中へと入る。
そこでシンクレアが目にした光景は少しばかり滑稽と言える物であった。
一人の人間の雌が下級魔人である侍女達を顎で扱き使っているのである。雌は妊婦のようであったが、シンクレアの主であるクラリスの二つ名を奪う程の傲慢さを曝け出している。
「王の寵愛を受け、御子を宿す私の言うことが聞けないの!」
「申し訳ございません」
侍女達は只管に謝り、雌の勘気が解けるのを待っているようだ。
「口答えを許した覚えはないわよ!」
雌は酷薄な笑みを浮かべ、その手に持った馬上鞭で侍女の顔を打つ。悲鳴を挙げること無く、鞭打たれた侍女は耐え忍んではいたが、そのことが雌の癪に障ったようだ。
興奮した雌が何度も侍女を鞭打ち、侍女の白い顔を赤く染めることに確かな愉悦を覚えているかのように見て取れる。
(何を勘違いしているのかは存じませんが、姫様の酔狂にも困ったものですわね。下賎な人間の雌にこれ程の暴挙を許されるのは感心いたしません。されど、姫様のお考えも理解できぬ訳ではないのが、悩ましいところではありますわ)
シンクレアの存在など眼中に入れず、ミーシャは己の欲望を満たす為に侍女達へと命令を下していた。
自らの立場を確立させた人間はどこまでも傲慢となれる。
家畜に自由意志を与える弊害を目の当たりにしたシンクレアは何事も無く、奥へと案内されて行く。
シンクレアの後ろからは未だに卑しい家畜の罵倒が響き、小鳥の囀りと比べて如何に人間が醜い物であるかをミーシャが証明してくれていた。
◆◆◆
クラリスの寝所へと案内されたシンクレアは散らばる調度品を目にして、軽く溜息を吐いた。
「随分と荒れておられますわね、姫様……」
「シンクレアか……正直に言うわ。本当に辛い……アイツのことを考えない日が無いの。何時までアイツと呼べるかも自信がないわ……今すぐにでも馳せ参じて、地に頭を付け、靴を舐めてでも懇願したいの……陛下の情けが欲しいと……これが魔人の本能か……話には聞いていたけど、本当に酷いものね……」
シンクレアの言葉に床に座ったままの【傲慢クラリス】はゆっくりと顔を上げ、虚ろな眼差しで力なく答えた。
クラリスの相貌には美しさよりも悲壮感が漂っている。フリルの寝巻きのまま髪も梳くことの無いクラリスは頬だけを上気させ、その少しだけ荒い息遣いがシンクレアの耳へと入り込む。
傲慢にして不遜の普段の彼女からは想像も出来ないその姿にシンクレアはクラリスもまた隆之に惹かれていることを確信した。
日が差す窓へと顔を向け、シンクレアは先程の一件をクラリスに話すことに決め、顔を背けたままに会話を続ける。
「あの者は確かミーシャと言いましたか……姫様はあの者を玩具にする御予定ではなかったのですか?」
「最初はそのつもりだったわ。でも、無理……あの娘が嘘を付いている事なんて私にだって分かるわよ! だけど、だけど、本当にアイツの……陛下の御子を宿しているとしたら……陛下がそれを肯定なされた場合は……私は私が許せなくなる……」
自らの髪を掻き毟り、クラリスは生まれて初めて自分の思い通りに事が進まない事態への困惑を隠そうともしない。
「陛下は御否定遊ばされますわ。それだけは私にも断言出来ます。あの雌を裏切ることだけは絶対にしない……それが陛下の御心と言う物でしょう……」
「ええ、きっとそう。アイツはそう言う奴よ……私たちがどんなに着飾ろうと、どんなに化粧をしようと、アイツは絶対に振り向かない。だったら、王に愛されぬ王妃に何の価値があるって言うのよ! 答えなさい! シンクレア!」
目を見開き、母に縋るクラリスの弱々しい姿にシンクレアの心は千々に乱れていた。
(御可哀想な姫様……あの雌を殺したくても、殺せないのでございますね。姫様の心をこんなにも乱す不逞の雌の嘘は何と罪深きことか。そして、その罪に合うだけの処罰は安息の死を与える事を不可能とさせる事でしょう。姫様、御安心なさいませ。幸運にもあの者は我が魔力を受け入れることの出来る器の持ち主でございます。陛下が御否定遊ばされた時こそがあの雌の永久に続く苦痛への幕開けとなるでしょう。それでお許し下さいませ……)
「此処に篭っていても、陛下の御意思は確認出来ません。全ての上級魔人の心を乱す魔王はメリウス王以来、千年ぶりの事なのです。このまま無為に時を重ねれば、あの者の望む世界が我らを待っておりましょう。殺戮を禁じられ、家畜の開放も行われるやもしれません。それを姫様はお望みなのですか?」
「嫌よ! 絶対に嫌! 魔人が魔人らしく生きられない世界に価値なんかある筈がないじゃない。そうね……まだ間に合いそう。私が私でいられる内にアイツを手に入れれば良い。全ての魔人達との退廃的で自堕落な生活を一度でも味わえば、アイツも人間だなんて世迷言は言わないわ。そうよ……簡単なことじゃない……」
クラリスの瞳に狂気が映り、シンクレアは目を細めて頷く。
次代を残すことには及ばぬが、殺戮も魔人の本能である以上、二人の美しき魔人達は王を迎えに行く。
それが世界に破壊と混沌を齎す結果になろうとも、シンクレアとクラリスにとってはそれを気にするだけの心の余裕が既に無かった。




