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魔王の美酒  作者: 白起
魔王の美酒 奪還編
39/88

美酒と勇者

【勇者】である神田彩人(かんだあやと)は一刻も早くこの訳の分からない場所から遠ざかる為に走っていた。彼は馬に乗ることなど出来ない為に徒歩(かち)での逃走であり、日頃の運動不足が(たた)って咳き込みながらも必死で逃げる。

 最強であるはずの自分の魔法が全く通用しない相手がいることに彼は理解が出来なかった。魔人とは世界を救う英雄である【勇者】の引立て役ではなかったのか。

 これでは話が違うと必死に現実を否定することで精神の均衡(きんこう)を保っている。

 周囲の兵士たちは彼を見捨てて既に逃亡しており、暗闇の中の逃走は彼から方向感覚を奪っていた。彩人には今自分がどちらに向かって走っているのかも分からない。

 時折聞こえてくる悲鳴が唯々(ただただ)彼には恐ろしく、死の足音がゆっくりと自分に迫っているようで先程から震えが止まらない。彼は疲労が溜まり、遂に足を止める。


「何で、僕がこんな目に合うんだ! 僕は【勇者】で世界を救う英雄のはずなのに! そうだ、僕は夢を見てるんだ! 目が覚めたら母さんが朝食を用意してくれて、父さんが模擬試験の結果を聞いてくるんだ……そうだよ、こんなことある(はず)無いじゃないか……僕は普通の高校生です! 魔力なんかいりません! お願いします神様……元の世界に……日本に帰してください……女の子にモテなくたっていいですから……もう我儘わがままも言いません! だから、だから……お願いだよ! 日本に帰してくれよ!」


 彼の心からの願いも神に届くことは無い。彼をこの世界に招いたのは神などでは無く、悪魔(スルド)なのだから……

 雪の上で座り込んで動かなくなった彩人を隆之が見下ろしていた。隆之の視線は冷たく、同郷の者に対する憐れみは全く感じられない。


「なあ……僕には分かるよ……あんたもこの世界に連れて来られたんだろ? 頼むよ……助けてくれよ……同じ日本人だろ……」


 虚ろな瞳をした彩人は涙を流しながら、隆之に懇願してくる。


(見た目は十代後半の日本人か……哀れにも自分の価値を見誤ったのだろうな。そして、その結果として命を散らすか……前の世界では保護すべき対象をこの手に掛ける。そこに罪を感じなければならないのは疑いようが無い。でも、この世界ではこれが(まか)り通る。それを知ろうとも知らなかった男を助ける義理が俺には無い。たったそれだけのことなんだよ)


 隆之に膝元で必死に命乞いをする神田彩人ではあったが、隆之自身も似たようなことを経験済みだ。

 全ては自分の力の無さと愚劣さが招いた結果なのだから、甘んじて受け入れる他に方法は無い。少なくとも、その方法を思い付くだけの知恵が隆之には浮かばなかった。


「君は俺を【魔王(ビス)美酒(ケス)】と知っていた……でも、助けようとは考えなかっただろう……そういうことだ……」


 隆之の右手に魔力が集まり、彩人へと向けられる。その表情に自責の念は感じられない。彼にとって、彩人は自らの目的を果たす為の手段の一つでしかなかった。


「英雄に憧れるのも良い。【勇者】として魔人に挑むのも良い。だが、敗者は全てを失う覚悟をしておくのが戦場の作法だよ……」

   

 隆之は(なお)も命乞いをする彩人の胸に魔力を放ち、四散するその血を全身で受け止める。

 暖かな血が氷点下の闇の中で凍結していく……

 隆之はゆっくりと頭を上げて空に向かって何かを呟いたが、吹雪の音に掻き消されて誰も知ることは無い。

 まだ息のある彩人をベアトリスの側近が治癒魔法を施している。彩人がこれからどのような目に合うかは隆之にも想像がついたが、関わりになるつもりも最早彼にはなかった。

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