マスタナ夜戦
彩人からの報復魔法を見た【暴虐ベアトリス】は笑いを堪えるのに必死だった。今生の【勇者】がここまで道化だと思わず同情してしまう。
「馬鹿の相手をせねばならぬそなたを気の毒に思うぞ、タカユキ……可視状態で魔力効率も悪く、実現までの時間が長過ぎる。哀れなものよ……」
ベアトリスが右手を軽く振ると、陣地前に【魔力障壁】が瞬時に構築される。彩人の放った渾身の魔法はそれに弾かれ、モール王国軍の右翼に甚大な被害を与えることになった。
彼の放った魔法によってモール王国軍は更なる苦境に立たされることになる。
「人間の魔力行使が稚拙な物なのはある程度は致し方ないことなれど……正直に申せば、今生の【勇者】は先代の【ヨシマサ】とは比べ物にならぬな」
ベアトリスは溜息をつきながら、今生の【勇者】の軟弱さに失望を覚える。あれで【勇者】とは笑わせてくれるものだ。
何も知らない異世界に召喚された一般人が魔人との戦争の役に立つ訳はない。そのことを隆之は自らの経験で知っている。
「人間には魔力を行使する為の体系だった術式が存在しない。奴らの多くがその身に宿す魔力など無いに等しいからな。それ故、あやつのような無様を晒すことになる」
(オネットさんに教授して頂けた俺は幸運だっただけか……)
隆之は口には出さなかったが、彼の魔力からベアトリスは彼の感情を読み取っている。
「さあ、タカユキ……狩の準備が済んだゆえ【勇者】という獲物を捕らえてくるが良いぞ。あんな物でもその血を浴びればそなたの顕在魔力が更に高まるよってな……」
ベアトリスは気丈に振る舞ってはいたものの、タカユキとの別れが近づいてきていることで内心は複雑なものを抱えている。隆之の妻の話は彼女も聞き及んでいる。
今の彼女の力を以てすれば彼の妻の解放は容易い。しかし、解放した後に彼の心が妻に向いていることを見せ付けられることはベアトリスにはとても耐えられるものではなかった……
◆◆◆
【暴虐ベアトリス】率いる魔人軍と【モール王国軍】とのマスタナに程近い平原で深夜から夜明けにかけて戦闘に及んだ一連の戦いを後世【マスタナ夜戦】と呼ぶ。
魔人ベアトリスが率いる魔人軍の数は二千であり、対してモール王国軍は今生の【勇者】神田彩人を擁した約十万であったが、ベアトリスが深夜に自軍の配下にモール王国軍の主だった将校の暗殺をさせて指揮系統を混乱に陥しいれた結果、モール王国軍は狼に追いやられた羊の群と化していた。
戦場の至る所で起きる悲鳴は全て人間のものであり、暗闇の恐怖も手伝い人間達の間で同士討ちが始まっている。
主だった将軍が既に討ち取られている状況において【勇者】である神田彩人が全軍の指揮を執ることが可能であったならば、戦局はまた異なる様相を見せたかもしれない。
しかし、彼は元の世界で一介の男子高校生でしかなく、混乱した数万の人間を立ち直らせて魔人に逆撃を与えることなど不可能であった。
一方的な狩場と化した戦場で【勇者】の姿を求めて隆之はベアトリスから貸与された幼竜の背に跨がり、戦場を駆けている。
【勇者】を斃し、その血を浴びる為に隆之は【勇者】から感じる魔力を辿たどり、今まさに彩人の眼前に迫ろうとしていた。
「我らを力技しか知らぬ獣と侮るとは……やはり人間は愚かよ。タカユキが望んだ故、この度の戦の捕虜は生かしておくが、魔獣の餌となる以外能の無い存在と言えような……」
ベアトリスは隆之を見送った後、本陣から動かずに戦況を見守っている。彼女の関心事は既にこの狩で得られる戦利品よりも隆之が【勇者】を討ち果たせるかどうかに移っていた。
まず間違いなく目的は果たせるとは思うが、乱戦の中で隆之が命を落とす可能性も否定出来ない。彼女は隆之の為に側近達全てをその護衛に付けていた。
彼女の部下に未だ犠牲者は出ておらず、【勇者】を討てばその可能性は皆無となる。【魔王の美酒】は【勇者】を殺さずともその血を浴びれば顕在魔力を高めることが出来る。
「タカユキには【勇者】を殺さず、虫の息でも構わぬ故、生かして捕らえて欲しいものよな……ありとあらゆる苦痛を与え、治療を施し、その精神が壊れるまで遊んでやろうぞ……」
隆之と共にいないベアトリスは偽りの【暴虐ベアトリス】に戻っている。【勇者】である彩人にとって生け捕りにされることが最も不幸であると言えた。
視界の全くない吹雪と暗闇の中、少し離れた場所から人間たちの悲鳴だけが聞こえてくるだけの狩場に一人で彼の帰りを待つベアトリスの顔は歪んだ喜びに溢れていた。




