魔人と勇者
北に位置するモール王国の冬は厳しい。魔人達には気温の変化など問題になることは無いが、人間にとっては活動がかなり制限されることとなる。
モール王国軍が【暴虐ベアトリス】を討ち取る為に凡そ十万の大軍を派兵したことは既に述べたが、彼らは雪深い中での行軍で既にかなりの体力を消耗してしまっていた。
明朝には総攻撃を仕掛けると総司令官に命令されている彼らは少しでも消耗した体力を回復させようとテントの中で身を寄せ合って寝ようとしたが、吹雪の音と余りの寒さに眠ることが出来ないでいた。
その陣営に忍び寄る魔人達がいることなど彼らは気付くことはなかった。
「意外であったか、タカユキ」
【暴虐ベアトリス】の軍勢二千はマスタナを出発し、モール王国軍のほぼ目の前に本陣を構えている。この吹雪の中で斥候を出すことは人間には不可能であり、モール王国軍は魔人達がまだマスタナに対陣していると考えていた。
ベアトリスがモール王国軍に対して奇襲を施すとの言に隆之は驚いていた。魔人が策を練り実行することは一般的ではない。魔人はその圧倒的な力によって人間軍を粉砕するだけだからだ。
「そなたの感情はすぐに魔力に出て面白いの。魔力が万華鏡の様に揺らめいて変化するのは見ていて飽きぬものよ」
彼女はこの吹雪の中で黒いイブニングドレスを身に着けているだけで、防寒具の類は一切その身に着けていない。彼女は自らと隆之のいる空間に魔力で作った膜を張り、結界として温度を保っていた。
雪見と言うには風情が無いが、女中が炭火を熾してその中で彼らは暗闇の先にある敵陣を眺めている。
「ベアトリス、貴方が奇襲をすると聞かされれば、誰でも驚くでしょう……」
防寒の為に全身を毛皮の服で包まれた隆之は少しだけ機嫌を損ねている。ベアトリスは先程彼に自分を呼び捨てにするように命じたのだが、自分の名前から敬称を外すだけで彼との距離が縮まったかのような錯覚を覚え、彼女の心はそれだけで満たされていく。
「此度は向こうも数が多いので少しだけ手間を掛けることにしただけのことよ。これは狩であって戦では無い。今回は効率を最優先して進めることにする……」
(貴方が傷つかぬように……)
ベアトリスの言葉は声が小さすぎて最後の部分が隆之には聞き取れなかった。ベアトリスが二千の部下達全てに【魔力障壁】を施してからモール王国軍の陣地に解き放った為にこの本陣にいるのは彼らと身の回りを世話する者達しかいない。
放たれた者達の任務は暗殺であり、彼らが敵の指揮官達を順次に暗殺することで命令系統を静かに破壊していった。
「終わったか。意外に早くことが済んだの……では、予自らがもう一つ狩場に華を添えることにしよう……そろそろ、獲物に起きて頂かぬと始まらぬからな……」
ベアトリスは敵陣から全ての部下達が帰還したとの報告を受け、魔力を解放し敵陣に向かって解き放った。
【暴虐ベアトリス】の【殲滅魔法】は眠り込んでいたモール王国軍に対して凶悪極まる目覚ましとなった。
◆◆◆
神田彩人は突然の爆音によって叩き起こされた。
寒さは相変わらずで、顔が痛い。呼吸器官の弱い彼は気温が低いと咳き込んでしまう。彩人は咽ながらも身体を起こすとテントから出て様子を伺うことにした。
そこで彼が見た物は自分たちの左翼陣営が炎に呑まれ、阿鼻叫喚の声が聞こえてくる凄惨な物だったが、彼には特に何の感慨も湧かなかった。
別に兵士がいくら傷ついても彼が痛い訳では無い。それよりもこの惨状を与えた【勇者】に対する無礼者への処置が優先こと項だった。
彼は周囲の魔力を探り、ベアトリス達がいるのを見つけ報復を与えることに決める。
最強の魔力を誇る自分の魔法がこの程度の物では無いことは当然のことであり、一瞬にして魔人達は彩人の魔法によって消滅してしまうだろう。
彼は両腕に魔力を凝縮し、己がイメージするままにベアトリス達の方向へ全てを叩き込む。
(くたばれ……化物が……)
彼は自らの勝利を疑ってはいない。何故なら彼こそが【勇者】なのだから……




