泡沫の夢
「ねえ、スルド様……どうして人間と仲良くしてはいけないのですか?」
一人の少女が【明星のスルド】にこう質問した。
時空の狭間に存在するスルドの館の庭園は枯れることの無い花々が咲き誇り、その中心に二人は立っていた。
風に舞う花びらが斑の空に飲み込まれては消えて行く。
「やはり母娘よのう……そなたの母も同じことをこなたに言うておったわ」
【明星のスルド】は少女を見下ろし、吐き捨てるかのように言った。侮蔑の表情は幼き少女にも見て取れ、少女は怯えながらも話を続ける。
「母様が? 母様は何時私を迎えに来てくれるのですか?」
「奴はそなたを迎えには来ぬわ! 我らを裏切り、剰え愚かな人間を愛し、そなたを設けた裏切り者の忌わしき【同族殺し】のことなど忘れるが良い。そなたのことも要らぬのであろうからの……」
淡い期待に胸躍らせた少女の気持ちをスルドは冷酷なまでに踏み躙る。
「嘘です……母様が私を捨てるなんて……」
スルドの言葉に少女は激しく反発する。あの優しい母が自分を捨てたとは彼女には到底考えられない。だが、次の瞬間にはあの母ならば然も在り得そうなことだとも思える。
(どうして、私は此処にいるのだろう? 父様と母様はどうして私を迎えに来てくれないのだろう?)
気付けば、ベアトリスは父も母もいない此処に一人で居た。
彼女は始めから此処に居たのか、それとも来たのか。それすらも分からぬままに時は過ぎ去っていく。
過ごし日々は刹那か邦由他か……
父と母と過ごした記憶が舞い散る花びらの如く一枚、一枚、彼女の手から離れていき、後に残る記憶の雫さえもこの幻想的なまほろばに吸い取られて行った。
(何故、私はこの人のことを知っているのだろう……)
目の前にいる女性を知らない筈なのに彼女は知っている。
塗り替えられていく記憶は美しい思い出こそ呪われし過去……
ベアトリスの前に立つ女性こそが彼女の全てであり、彼女を導いてくれる尊き御方である。
彼女はスルドの思い通りに振舞わなくてはならない。
「嘘も何も現にアナスタシアは此処にはおらぬ。それが全てであろう?」
「そんな……」
否定する気持ちはすぐに掻き消される。そう、少女の母は彼女を捨てて、汚らわしき人間を選んだ。
果たして、本当にそうなのか?
「半魔の分際で母を恋しがるか? 誰もそなたのことなど要らぬ。忌子のそなたの居場所など何処にもあろう筈が無かろうて……」
黒絹の髪を風に靡せ、白きドレスを纏ったスルドの姿が風景に溶け込み、少女の瞳に小さく写る。
ここは夢か現か分からぬ世界であり、時の流れすらも受け付けぬ永遠の牢獄……
「スルド様も私が要らないのですか?」
少女の瞳に光が無くなり、虚ろな眼差しで彼女はスルドに問い掛ける。
「要らぬわ……弱き半魔のそなたに何の価値があると言うのじゃ? あると言うならば、そなた自身がそなたの母と違うことを証明してみせよ」
「母? 証明?」
少女にはスルドの言うことが理解出来ない。母とは誰を指して彼女は言っているのだろうか?
「何も難しいことは無い。人間を殺し、その屍で天にも届く山を築き、その血潮を海とせよ。それが出来るのであるならば、誰もそなたのことを忌み嫌うことは無かろうて」
「でも、可哀想です……」
(人間が可哀想? どうして? 父様も人間だから? そう、私も半分は人間……だから私も半分は殺さないといけない……)
「可哀想と申すか。やはり忌わしき【同族殺し】の血は争えぬのう……それとも下賎の血故の戯言か? 何れにせよ、そなたには然様な感情は必要あるまい」
スルドの言葉が少女の胸に突き刺さる。
人の血が少女に優しさを与えた訳でも、魔の血が与えた訳でも無い。
心優しき少女は人と魔の血を以って生まれた一つの可能性……
「良いか、そなたには北を任せる。見事に統治して見せよ。話はこれでしまいじゃ、疾く去ね」
スルドの言葉に少女の身体が消えて行った……
少女の訪れるは極寒の地……
この地をを支配するは残虐非道の【暴虐のベアトリス】……
贅を極めた壮麗な宮殿の玉座に少女は一人 佇む……
万骨枯れた不毛の大地で魔人達がこの世の春を謳歌する……
少女の心まで凍てつくこの地に春が訪れるのはまだ先の話……
何処よりか現われた花びらが一枚、雪の上に舞い降りた……




