将足るやもしれぬ
隆之がシンクレアの館に呼び出しを受けたのは既に日も傾きかけた夕方だった。
シンクレアの屋敷の庭園で彼女が執事服を身に纏ったカーネルの煎れた紅茶を嗜んでいる。
冬の寒さにより薔薇の花は全て散っており、庭園は閑散とした雰囲気を醸し出していた。
隆之はシンクレアの元へと足早に歩き、跪いて彼女への礼を取る。
「お召しにより参上いたしました、シンクレア様。この臣に何用でございましょうか」
彼の挨拶にシンクレアが手を休め、カーネルは隆之の為に紅茶と焼き菓子をシンクレアの対面側に用意し始めた。
「そのような挨拶は無用ですわよ、タカユキ。貴方がそのような言葉を使われるのは似合いませんから。口調だけ丁寧でも心が真逆であることが有り有りと見て取れましてよ」
シンクレアが隆之の挨拶が滑稽であることを指摘する。彼女としてみれば、自分が隆之にとって憎んでも憎み切れない仇敵であることなどは百も承知している。
偽りの姿を見せられるのは彼女の好みに合わない。擬態をされることよりもありのままを彼女は好んだ。
「先ずは先の戦の武勲、誠にお見事でした。ここに来るまで何の戦闘訓練も受けていなかった貴方がライオネル王国の英雄アイン・フリーマー将軍を討ち取ることが出来るとはあまり思っておりませんでしたから。あわ良くば程度に考えておりましたのよ。見事に期待以上の働きを示してくれましたね、タカユキ。この分では【エリーナ】を取り返す日もそう遠くないやもしれません……」
シンクレアが【彼女】の名を口にした途端、隆之の全身から魔力が溢れ、瞳が金色に染まっていった。
「貴様が、その名を口にするな! 彼女を汚すことだけは絶対に許さない」
隆之がシンクレアに対して向ける激しい怒りと憎悪にカーネルが身構えるが、シンクレア本人がそれを制して楽しげに話す。
「それで良いのですよ、【魔王の美酒】。偽りの無いその姿こそ貴方には相応しくてよ。憎むべきを憎まずして貴方の力の向上は有り得ません。貴方は自分の目的の為に走れば良いのです。私も自分の願いを叶える為にそれを利用させて頂きますから……」
シンクレアはそう言うと、隆之に席を勧める。しかし、彼は席を彼女と同じくすることを難く拒んだ。
「あまり意固地なのは優雅ではありませんわよ。偶にはお茶でも嗜まれては如何?」
「魔人の煎れた茶など飲まないことにしているだけだ。気にするな」
「そうですか……まあ、こちらも無理強いをするつもりも無いので構わないでしょう。さて、用件を御話しさせて頂きます。北の【モール王国】に【勇者】が召喚されました」
シンクレアが扇子で口を覆いながら隆之に話すと、彼の表情が明るく変化する。魔力もそれに同調して揺らめいており、魔力を出せば彼の感情は手に取る様にシンクレアには分かった。
「期待するだけ無駄ですわよ、タカユキ。【勇者】にしろ【英雄】にしろ、爵五位以上の上級魔人を倒したことは前例の無いことです。所詮彼らは【魔王の美酒】である貴方を高める為に【明星のスルド】様が用意した餌に過ぎぬのですから……その辺りを勘違いせぬ方が貴方の為ですわよ、タカユキ」
隆之は彼の思ってもいなかった事実をシンクレアから告げられ、思わず絶句した。【勇者】が彼女を斃してくれることに彼は少なからぬ希望を見出していたのだから。
「そんな……」
肩を落とす隆之を見て、シンクレアは彼を哀れに思う。思い付きではあるが、シンクレアは彼にあることを提案することにしてみた。
こう言った所が他の魔人達に人間に甘過ぎると彼女が言われる所以であったが……
「タカユキ、落ち込む必要はありませんわよ。もしも貴方に【勇者】を殺してその血を浴びる覚悟があるならば、私の元を一時的に離れて北の【暴虐ベアトリス】に仕えることを許しましょう。【魔王の美酒】である貴方の血を見返りにすれば、彼女はこの話に飛びついてくるでしょうから……貴方は【暴虐ベアトリス】に一週間に一度その血を与える代わりに【勇者】討伐を成功させなさい。【勇者】を殺した【魔王の美酒】は爵六位以上の魔力を身につけたと書物には遺されております。どうしますか?」
シンクレアの提案を聞いた隆之は逡巡して即答が適わない。
(シンクレアの言う事に偽りが無いのは分かる。だが、俺が人間の希望を奪って良いのか?)
隆之は彼女の提案を呑むかどうかで迷っていた。
「相も変わらず、今生の【魔王の美酒】は優柔不断ですこと。先程も私が申しました通り、【勇者】などは所詮は我々【上級魔人】の脅威には成り得ないのです。我々を斃す可能性を秘めているのは、強いて挙げるとすれば、【魔王の美酒】である貴方以外には考えられませんのよ。【勇者】と【英雄】をその手に掛け、その者達の血を浴びた貴方こそがそれを成す唯一無二の存在であることは貴方の心に刻みつけておきなさい……さあ、どうされますの?」
彼女が嘘を嫌うことは隆之も理解している。彼女の言うことが彼の妻を取り戻す本当に唯一の策なのだろう。ならば、彼に悩む理由は無い。
彼女を取り戻し、【ヨルセンの村】での平和な日々を送ることが再び叶うのならば、彼は他の誰かを殺すことも厭わない。例えそれが元の世界の者だとしても……
確実に堕ちていく隆之のその姿を見た時、変わらないエリーナが彼を嫌うことを彼は最も恐れていた。それ以外の事など、彼にとっては些末なことに過ぎない。。
「良い顔になりましたわね、タカユキ。私、殿方の決意した姿は愛しく思いますわよ。【暴虐のベアトリス】には私から伝えておきますから……それでは貴方は準備が整い次第、彼女の元へと向かいなさい」
シンクレアの命令を了承した隆之が庭園を後にする。
彼の姿を何も言わずに見ていたカーネルは今の彼ならば将に足るやもしれぬと思ったが、それは主にも告げずに彼の胸に仕舞っておくことにした。




