トマールの戦い 逃げる隆之に迫るフランク・オットー将軍の脅威
ライオネル王国軍から聞こえた絶叫をシンクレアは天幕の中で聞き、すぐに軽い興奮を覚えた。彼女にとって、これは歓迎すべき嬉しい誤算である。
「カーネル、やはり死兵との戦は良い物ですわね」
天幕の中で寝台に横たわる少女の死体を傍仕えに処理させた後、シンクレアは嬉しそうにカーネルに話し掛けた。
カーネルが記憶する限り、これ程シンクレアの機嫌が良いのは滅多にないことだが、隆之を捕らえた時も上機嫌だったことを考えるとシンクレアの気性がもしかしたら変化してきているのかもしれない。
「外の様子がお気になられますか、お嬢様?」
シンクレアの命令により、全身を覆う鎧を外したカーネルは普段の執事服に既に着替えており、ストレートの赤髪を肩で揃え、一見少女と見違える容姿をしている。
動作は洗練されており、彼はシンクレアの為に紅茶と口直しの甘い砂糖菓子をテーブルに配膳していた。
シンクレアに給仕する時のカーネルは鎧を着けた時とは別人の様な穏やかな声をしている。体型も薄い筋肉を覆われてはいるものの、先程の屈強な一軍の長と同一人物にはとても見えなかった。
二人の姿は午後のお茶を楽しむ貴族令嬢と彼女に献身的に奉仕する貴族階級出身の執事にしか見えなかった。
「まあ、周りの者は問題ないのですけれど、その中心にいるのが問題かしら?」
カーネルはシンクレアと会話しつつも、手を休めることなく紅茶を注ぎ、ミルクと砂糖を一匙ずつ入れ、純金のスプーンで数度掻き混ぜてからシンクレアに差し出した。
「ありがとう、頂きますわね」
カーネルから受け取った紅茶を一口し、言葉を続ける。
「カーネル、貴方を手に入れた時と同じ波動を感じましたの。完全に私の魔力に対して適性を持つ者ですわ。ヨルセンの村で【魔王の美酒】をこの手にした喜びには及ばませんが、百年ぶりの出会いに感謝したくなるのは当然ではなくて?」
普段のシンクレアは紅茶を嗜んでいる時も扇子で口元を隠している。それが今では扇子をテーブルに置いたままでカーネルとの会話を楽しんでいる。
「貴方からの条件は今でも忘れてはおりませんのよ、カーネル。今考えれば、なかなかの交渉上手でしたのね、貴方は……」
「恐れ入ります……」
カーネルが微笑を浮かべ、軽くシンクレアに頭を下げる。
「魔獣の食用として確保していた人間の引き渡しの上、あの戦闘における全兵士への助命及び今後二十年に渡ってモール王国に対してだけは侵略を行ってはいけない。この三つが守られない限り、如何なる拷問や恥辱にも屈することはないと仰った貴方との約束を守るのは本当に苦労しましたのよ。そうそう、モールに隣接する領地を持つ魔人達に対しての手回しが一番大変でしたわね……」
「本心を申しますと、私もシンクレア様がその通りにして下さるとは微塵も思っておりませんでした」
「あら、一度交わした約束は守ってこそ価値のある物ですわよ。厳守する者と交わす約束は如何なる財も及ばぬところでしょうに」
シンクレアは一度交わした約定を違えることは決してない。出来ない約束は最初から交わさないし、約定を違えた者を許して来たこともない。
「さて、貴方のお茶も頂きましたし、そろそろ外の様子を見てみたく思いますわ。カーネル、服装はそのままで宜しくてよ」
「承知致しました」
徐ろにシンクレアが立ち上がり、カーネルが天幕の入り口を開く。二人は仲の良い恋人の如く寄り添いながら外に出て行った。
シンクレアはカーネルが自らの名を捨て、彼女に忠誠を誓った時のことを今でも昨日のことの様に思い出せる。
彼との約束の二十年が経過した時に彼は彼女の永遠の騎士になることを誓い、シンクレアの手の甲に軽く自らの唇をつけた。その仕草が愛おしく、魔人としては考えられない発言をした。
「人間には結婚と言う物があるみたいですけれど、貴方とならばそれをしてみるのも吝では無いと思ってしまいますわね……」
その言葉には少しだけ照れを含まれており、それを隠すかのように慌ててシンクレアは彼を「カーネル」と名付けた。
その時に、シンクレアにとって彼は伴侶となっていたのかもしれない。
寄り添った二人が天幕から出てから戦況を確認すると、戦局は面白いものになっていた。一方的に蹂躙されていたライオネル王国軍が魔人軍に対して一丸となって攻撃している。
騎馬兵の機動力を活かした一斉突撃に対して個々で対応している奴隷達は翻弄されるに任せていた。
騎馬兵全てが金色の光を帯び、本来なら届くはずのない刃がシンクレアが施した魔力障壁を突き破っていた。ライオネル王国軍全ての騎士が馬上槍を行える技能にカーネルも感嘆の声を挙げる。
「素晴らしい部隊です」
「ええ、先頭にいる者が周囲にいる全兵士に魔力を拡げ、私の魔力障壁を破るほどの力を示していますわね」
シンクレアは目の前の光景に一種の芸術性すら見出していた。
「既に、我が兵士にも百余の戦死者が出ておりますが、如何なされますか?」
「フランク・オットー……ライオネル王国の名門貴族であるヴァイス・オットー大将軍の嫡子ではありますけど、何れはヴァイス・オットーがフランク・オットーの父親でしかないことが証明されますでしょうね。人間として見るならば文字通り百年に一人の逸材なのですから。是が非にも手に入れたいとは思いますが、恐らくは無理でしょう……」
そう言った、シンクレアは残念そうに溜息を吐いた。扇子はテーブルに置いたままだったので、カーネルも仕えてから初めて見る光景だった。
戦局を踏まえ、カーネルがシンクレアに提案した。
「私が参りましょうか」
カーネルの提案にシンクレアは首を横に振って答える。
「今度の狩りはタカユキに力を付けさせる為に始めたのですから、タカユキがアイン・フリーマーを討ち取ったことで良しとしましょう。あまり欲を出すのは得策ではございませんものね」
「シンクレア様、無礼を承知でお尋ねします。フランク・オットー将軍は【勇者】なのでしょうか?」
「【勇者】ではなく、【英雄】ですわね。もし、捕縛が叶えば、すぐにでも爵八位の魔人が出来るでしょうに……非常に残念に思えますわ。では、カーネルにこの狩りの……いいえ、こちらにも犠牲が出た以上戦と扱っても宜しいですわね。この戦の始末を貴方に全て任せます故、良きように取り計らないなさい。後、無事な稲穂は捕虜に刈り取らせることは忘れずに行って下さいね」
「畏まりました」
天幕に引き返すシンクレアを見送り、カーネルは全軍撤退の指令を魔法によって行った。
◆◆◆
隆之はアイン・フリーマーの亡骸を捨て置き、将軍の死によって動揺している騎士達をその手刀によって、切り裂いていた。
魔力を込めただけで、盾や剣ごと真っ二つに出来る感触は彼にとって斬新なものである。既にこの戦の趨勢は決定的となっており、これから人間達がどの様な手を講じようとも挽回することは出来ないところまで来ている。
戦意を失っている者達相手でも彼はその蛮勇を躊躇すること無く振る舞う。
暫くして、彼の周りに動く者がいなくなった。
隆之が死体の山の中心で呆然と佇む。
彼は初めて人を殺したと言うのになんの感傷も湧いてこなかった。戦場に来たくなかった者たちが殆どであろう。
壊れた玩具のように横たわる騎士の傍らに神殿の発行する「破魔のお守り」が落ちていた。
(血に塗れたお守りは一体誰を守ってやったんだろうな……)
この世界に神様はいない。しかし、人間にどうしようも出来ない化物共が存在している世界。
これ程に理不尽に汚された世界があるだろうか……
(もう一人、召喚される筈の勇者が未だに召喚されていない……その人はこの世界を見てどう思うんだろう。きっと、俺みたいな小心者ではない本当の勇気を持った奴が召喚されるのか……同郷の勇者は魔人の家畜となっている俺ですら救ってくれるのかな……解放してくれるのかな……元の世界になんて帰れなくていいんだ。俺は唯、もう一度エリーナとあの生活を送りたいだけなんだ……)
隆之と彼女の二人での生活は不便ではあったが、心温まる幸せな時間が穏やかに過ぎて行くそんな生活だった。彼は元の世界では感じたことのない充足感を彼女から与えられた。
戦場に出るまでは同じ人間を殺すことに大いに抵抗があった。だが、一度この手を血に染めたのであるならば、もはや何の躊躇いもいらない。
あの魔女【怠惰シンクレア】以上の魔力を手に入れなければ、エリーナは取り返せないのだから……
突如、タカユキの後背から雄叫びが聞こえた。すぐさま意識を切り替え、振り向き様に戦闘態勢に入る。そこで見た光景に彼は言葉を失った。
金色の光を纏った騎馬兵が奴隷軍を翻弄している。シンクレアの魔力によって人間の武器が無効化する筈の【魔力障壁】を人間の槍がいともたやすく貫いているのだ。俄かには信じがたい光景だ。
先頭に立つ黒髪の若者が凄まじい魔力を放ち、周囲の騎馬兵にも伝播している。
(凄いな。人間の身であれ程の魔力を放つなんて……あれが、召喚された勇者なのか?)
隆之が考えたことは先ずあの者が【勇者】なのかと言う疑問だったが、勇者が召喚されたのであるなら彼にも伝えて貰える筈だ。だから、それはあり得ない。
【怠惰シンクレア】が約束を破ることはないと彼は聞いている。では、勇者ではないとしたら先頭で人馬一体となって槍を振うあの若者は一体何者なのだろうか。
(何れにせよ、今の俺では勝てない。でも、アイツを殺せばエリーナに近づけるか……終ってるな、俺……)
隆之が出した答えはその場から撤退する事だった。あの若者は確実に隆之よりも魔力も高く、武芸にも秀でている。
勝てる要素が見当たらなければ逃げる事も戦術の内だ。恥ずべきことは何も無い。
彼には死ねない理由があり、勝負は最後に立っていれば良いとこれは隆之自身が戦場に出る前から割り切っていたことだった。




