トマールの戦い アイン・フリーマーの最後
ライオネル王国軍にとっての悪夢は始まってから一時間が経過したばかりだ。
百戦錬磨を誇るアイン将軍にもこんな異常事態は正直に言って経験したことがない。
弓隊の放つ矢は確実に当るものの、家畜共は誰一人倒れない。矢は全て弾かれるか、鎧に防がれている。認識が甘すぎたことを今更ながらに彼は後悔した。
アインは奴らを裏切り者の人間として捉えていた。だが、実際は違う。奴らは爵五位以上とは比べ物にならないが、人間にしてみれば、十分に災厄と言える化物共だ。
魔人共が防御柵を難なく破壊し、既に農民兵に襲いかかっている。あまりにも一方的過ぎる。農民兵の一部が突如破裂し、物言わぬ肉塊と化して幾分も経っていなかった。
人は理解できぬ状況に恐れを抱くものだ。そんな中、野獣と化した魔人が襲い掛かってくる。
この状況でどう戦えと言うのだ。奴らは自軍の兵士達の四肢を片腕で引き千切り、首を捻じ切っていく。
騎士でもない農民兵をこの状態から立ち直せるなどアインと言えど不可能だ。これが夢ならば、早く覚めて欲しかった。
当然、農民兵達は逃亡を図るが、そんなことを奴らは許さない。逃げようとする者たちから魔法により行動の自由を奪い、優先して順次に殺していく。
状況を見るにアインの指揮下にある農民兵たちは粗方壊滅となり、騎士族と貴族から成る甲兵も善戦はしているが、五人で一人を抑えるのがやっとだ。
唯一の救いは騎士達が農民兵と違い生け捕りにされているおかげで、フランクが逃げる時間を稼げる可能性が高いということか。
一旦、後方にて軍の再編を行うまでは不可能だが、フランクだけは何としても逃さなければならない。フランクの直属の騎馬二千が無傷である内に撤退させなければ、可能性は時間の経過と共に低くなるばかりだ。
黄色と判別されたアインは自らを殿とすることで、魔人共の注意を引くことが出来る。
分の悪い賭けではない。しかし、敵兵の中で混戦に巻き込まれるのは必至であり、命を落とすことは確実ではあった。
「フランク様に先程申した事をしかと伝えよ! この戦の先は見えておる」
アインは側にいた騎士の告げると、命じられた騎士は無言で頷き、馬で後方へと下がって行った。後は自分が殿となれば問題がない。
フランクが逃げ延びるまで、凡そ一時間は掛かる。それを稼ぐ為に必要な代価はアインの命だ。勲功第一の黄色の選別を受けたことを本当に幸運に思う。
(安い物だな……この俺の首一つで二千の命が救えると言うならば……)
アインが目を離した次の瞬間、風景が一変した。
気づけば、周りには誰もいない。
目の前に立つこの魔人が一瞬で首を刎ねていた。血の噴水の中で彼が呟く。
「こういう使い方も出来るんだな、魔力って……実に便利だ……話は変わるのだけれども、悪いが貴方の血が欲しい……」
隆之はこの戦場で新たに覚えた魔力の行使方法に軽い愉悦を覚える。
彼の目が金色の光を帯び、その顔からは何の人間らしい感情も見受けられない。その異様な様子にアインの愛馬が後ろに闊歩した。
(震えておるのか、この儂がこんな若造如きに?)
この武者震いとは違う感覚はアインが久しぶりに体験する純粋な恐怖だった。対峙したままで彼の体に向けて隆之が右手の手刀を上下させる。
放たれた光がアインの身体を通過して行った。
槍を合わす訳ではない、組み合う訳でもない。唯、それだけで二人の勝負の決着が付いた。
「最後の言葉を言うつもりはありますか?」
「ふんっ、戦場にて三十余年、多くの味方と多くの敵の死を見送った。今更、自分だけがベッドの上で死ぬつもりもない。唯、何時も全力で駆けるのみじゃ!」
その言葉を最後にライオネル六将軍の筆頭であるアイン・フリーマーは馬ごと左右に分断され、絶命した。
分断され、噴水の如く血を飛び散る様に隆之は狂喜し、一心不乱にその血を浴びることに努める。
彼は浴びる毎に自らの枷が解き放たれていくようで、その事に無上の喜びを覚えていた。
それは彼の愛しい妻を取り戻す為の手段が誤りではなかったことの証明に他ならなかったからである。




