3、公爵家唯一の理解者
爺と話すのは最後になるだろう、そんな思いで少しだけ先を歩く爺の背中を見る。
幼い頃公爵代理やミラに「笑顔がない娘(お姉様)は、なんて不気味なのか(かしら)」と言われて庭で悲しんでいた時、爺だけはその様子に気づいて毎回話しかけてくれたのを思い出す。その時は大きな背中だ、と思っていたが、今はとても小さい。
「お嬢様、私は旦那様にお願いしてお暇を頂く事になりましてね」
懐かしみながら爺の背中を見ていた私に、そう爺は声を掛けた。その言葉を聞いて私は僅かに目を見開いた。まさか爺から退職を願い出るとは思わなかったからだ。
「実は甥っ子がダラム帝国で暮らしておりましての。以前からやり取りをしていたのですが、あちらから『帝国に来ないか?』と誘ってくれましてねぇ。この際だから若い衆に任せて、儂は甥の元に向かう事にしたのですよ。一応まだ料理長の立場はあるんですが、現在は引継ぎもあって監督しかしておりませんて。儂も数日後に荷物を纏めて帝国へ向かう事になるかと思いますぞ」
「そうだったの。爺、今までありがとう」
「いえいえ、儂は何もできない爺でしたよ。さて、そろそろ問題なさそうですね」
ふと気づくと公爵家の門は遠く、あれだけ騒々しかった使用人たちの声も聞こえなくなっていた。その代わりに、進行方向からは街の活気ある声が聞こえてくる。爺の歩きが早かったためか、気付かぬうちに歩調を合わせていたらしく、既に目視できる位置に乗合の馬車乗り場があった。
爺は馬車乗り場に背を向け、私に向き直る。そして元々細い目を更に細めて見つめてくる。見つめた時間は数秒だったが、その後すぐに爺は微笑んだ。
「いやはや。お嬢様はやはり奥様によう似とりますな」
そう言った爺は笑顔を見せた後、すぐに手に持っていた袋に目を落とし、袋の中から何かを取り出した。手渡されたものは、綺麗に装丁されていた本と、紐で括ってある冊子のようなもの。
「この本は奥様から、このメモは儂からです」
「爺とお母さまから……?」
差し出されたものをよく見ると、冊子は爺の手書きで書かれているメモのようだった。黒いインクで書かれているようで、所々薄くなっている部分も見受けられる。
「儂のメモは以前お嬢様が、『お菓子の作り方を知りたい』と仰った時から書き溜めていたものですな。汚い紙と字で申し訳ございませんが、よければ役立ててください」
「……ありがとう、爺」
思わず私は貰った本と冊子を胸に抱く。
あれは私がまだ幼い頃。ハリソンとの婚約を結ぶ前の話だ。
公爵代理はある時からミラを外に連れていくことが多くなった。社交のためか、ただ単に可愛い娘を見せびらかしたいだけなのかは分からないが、頻繁に外に出ていたのを覚えている。
初めは部屋の中でのんびりしていた私だったが、ふと屋敷の中を歩いてみようと思い立ったのだ。彼は「アレクシア」の名前すら聞く事を拒否していた。そのため、使用人も彼女の事を告げ口することもないだろうと思ったのである。
部屋を抜け出した後は爺の元でお菓子を一緒に作り、作ったお菓子は母に渡したり。その時に「もっと色々なお菓子を作ってみたいな」と独り言で呟いた事があったのだ。それ覚えていてくれていたらしい。胸の辺りが熱くなる。
「そして本は、奥様がアレクシア様に渡すようにと仰せられたものです」
「お母様から……」
爺は手を背中で組んで話し始める。ちらちらと見える爺の顔は、悲しみが隠し切れていない。
「奥様は……亡くなる前に私にこう仰いました。『アレクシアを宜しくね、貴方にお願いするのも間違っているとは思うけれど、夫は聞く耳を持たないから』と……」
「そんな事が……」
「ええ、この事はお嬢様も知らないとは思いますが……お嬢様とミラ様の扱いの差は赤ん坊の頃からなのですよ。出産当時、奥様はお嬢様方の世話をする乳母から、旦那様がアレクシア様のことを気味悪がって可愛がらないと、聞いたらしいのです。奥様は旦那様に注意をしましたが、聞く耳を持たなかったらしいですぞ」
小声ながらも教えてくれた事だが、当時アレクシアは、泣く事はあるが笑う事がほとんどない赤ん坊だったようだ。一方アレクシアが笑わない分、ミラは感情が豊かだったらしい。バートも構うと喜んでくれるミラを溺愛し、構ってもあまり反応がないアレクシアを遠ざけたことから軽視が始まったようだ。
そして成長するにつれて、忌避している祖母に似たアレクシアをより一層邪険に扱い、自分に似た髪色や瞳を持つミラを溺愛していったという。
「その後、奥様が何度注意されても旦那様の態度が直らなかったのです。奥様も何か思うところがあったのでしょうな……流行病で亡くなる前に渡されたこの本は、然るべき時に渡してくれ、と頼まれました。頼まれて数ヶ月後に奥様はお亡くなりになって……」
その時の事を思い出したらしい爺は目に涙をうっすらと浮かべている。すぐに背中を見せて私から涙を見えないように隠したが。
「奥様は勘の良い方でした……多分ご自分の死期も勿論の事、死後の事も朧げながら分かっていたのかもしれませんなぁ。その本も奥様が亡き後アレクシア様の手元にあれば、きっとミラ様に取られていたかもしれません」
爺の言う通りだ。公爵代理が実の娘である私を蔑ろにし、もう一人の娘であるミラばかり可愛がれば彼女の性格が歪むのも仕方のないことだろう。現に、自分が公爵家の部屋に置いていた宝石やドレスなどの類は全てミラに取られていたし、王宮の部屋に置いていた類も全てミラのものになると、彼が言っていたことを思い出す。
母から誕生日に貰ったプレゼントまでもミラは奪っていったのだ。どれだけ悲しかったことか。
だから最後に母の形見とも言える本を手にできた事は、私にとって青天の霹靂であり――同時に、公爵家に対する未練もなくなった瞬間であった。
「お母様の形見を預かっていてくれてありがとう、爺」
手渡されたメモと本を丁寧に手提げ鞄にしまった後、爺に頭を下げてお礼を伝えた。爺も少しだけ口角の上がった私の顔を見て満足したらしい。顔には笑みを浮かべている。
「爺、また会える時を楽しみにしているわ。落ち着いたら帝国へ旅行にでも行こうかしら?」
「ふふふ、お待ちしておりますぞ」
街の賑わいに向かって歩き出す二人。私たちの足取りは公爵家を出る時に比べて、軽くなっていた。
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