クリス殿下は嘘泣きを覚えている!
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その日はちょうど俺が遅めの休憩に出るところだった。
他部署はとっくに昼休憩を済ませているので、廊下を行きかう人はまばらだ。
「ん?」
「おや、カルレイン様。これから休憩ですか。お疲れ様です」
俺の後ろからやって来て追い抜いていこうとしたのは、クリス殿下の侍従だ。
殿下は老け顔で年齢を判断しているせいか「じぃ」なんて呼んでいるが、彼はまだ四十代。俺ののんびり歩きを追い越すほどきびきびしている。
「あなたも休憩ですか?」
「はい。殿下は今トンプソン先生の授業ですので、私は休憩に入らせてもらいます」
「毎日大変ですね」
あの五歳の殿下の侍従となると大変だろう。
しみじみ口にすると、彼は笑う。
「子供の成長はあっという間ですからね。私の感覚で言えば、殿下はついこの前まで王妃殿下のお腹の中にいらっしゃったのに」
毎日殿下に振り回されていると悟りの境地に到達するのだろうか。
でも、子供の成長というのは確かに早い。
行き先は一緒なので、ともに王宮の食堂で昼ご飯を済ませる。
「ところで、カルレイン様。指輪はもう選んだのですか? 殿下が気にされていましたよ」
五歳児、チェックがいちいち厳しい。
「二人で選びに今週末行きます」
「それは良かったです」
「シンプルなものになると思いますよ」
「仕事中もつけることを考えるとそうなりますね」
まだ休憩時間には余裕があった。
彼も俺も、残念ながら早食いの癖がついてしまっている。
「あ、クリス殿下」
廊下から見える庭にクリス殿下一行がいた。護衛騎士たちもいるので一行は大人数で目立つ。
「本日は屋外で授業ですね」
「でも、あれって……飽きてますね」
「飽きておられますね……今日は狸寝入りはされなかったのですが」
トンプソン先生は六十代の男性教師だ。ゆっくりとかみ砕いた喋り方をするので分かりやすいのだが、時折それは強烈に眠気を誘うらしい。
クリス殿下はトンプソン先生が花や木や鳥を示して説明しているのに、地面をひたすら見ている。
「あれは鼻水で遊んでおられますね」
二人でゆっくり歩きながらじっと見ていると、クリス殿下は腰を折って顔を前に突き出し、鼻水を垂らして遊んでいる。体まで揺らしているのだ。
体の振動も手伝って、つうっと鼻水が垂れそうになったところで、殿下は地面に落ちていた大きめの葉を手に取った。
「あっ」
「大丈夫ですよ」
トンプソン先生は喋り方とは違い、素早い動きで殿下の手から葉っぱをもぎとり、控えていた年かさの侍女がすぐに綺麗なハンカチで殿下の鼻を拭いている。
あんな葉で鼻を拭いたら絶対に荒れる。二人のファインプレーだった。
殿下は葉で鼻水を拭こうと企んだようだが失敗して、少し不満げな顔で鼻水を拭かれている。
「殿下も男の子ですねぇ」
「えぇ、五歳ですねぇ」
「子供は鼻水で遊んでいても可愛いですね」
「今だけですから」
立ち止まって見ていると、殿下は鼻水遊びにも飽きたようで花の観察に戻っている。
ピンク色の花を気にして、トンプソン先生を振り返って何か質問している。
「ダリアお嬢様にプレゼントされるのかもしれませんね」
「なるほど、おませですね……ダリアお嬢様はピンク色がお好きですから」
ピンク色の花について質問してまた飽きたのか、今度は土をいじっている。
トンプソン先生は付き合ってしゃがんで、何やら説明を続けている。六十代であんな風にしゃがむのはきついだろう。
「大変ですね……」
「五歳ですからね。王太子殿下は同じ年の時に授業中走り回っておられたので、それに比べたらクリス殿下は大人しい方です」
あれで? という言葉は喉で止めておいた。王太子殿下は意外とやんちゃだったらしい。
「それは面白いことを聞きました」
「もちろん、ダリアお嬢様のように大人しく真面目に授業を受けていただくのが一番いいのですが……元気なのも今だけですからね」
アガシャ曰く、ダリアお嬢様の授業で困ることはないらしい。というか、ダリアお嬢様は大人しいのであまり突飛な子供らしいことはしない。
「あ、見つかってしまいました」
「カーウーレーイーン! じぃ!」
殿下はもう授業どころではない。俺たちを見つけて嬉しそうに大きく手を振っている。
俺たちも手を小さく振り返したが、鼻水がまた殿下の鼻の下で光っている。侍女がすかさずまた拭いていた。
「殿下、風邪ですか?」
「おそらく、前兆だと思います。スケジュール調整をしておきませんと」
ずっと殿下を見ている侍従は分かるらしい。
さすがにクリス殿下の授業のお遊びがすぎたのか、トンプソン先生は殿下の肩に手を置いてちょっと怒っている。笑顔だが、額に少しだけ筋ができているのだ。「殿下、授業中ですから頑張ってお勉強しましょうね」とでも言い聞かせているらしい。
殿下は何やらグズグズ言い、俺たちの方に走り出そうとして止められ、手で目を擦りながら泣き始めた。
「ご機嫌斜めなんですかね」
「ふふ、カルレイン様、私はここで失礼します。あ、そうそう。殿下は嘘泣きをされる時は鼻水が出ていません」
侍従は殿下をじっと見つめていたが、急に俺に向き直る。
殿下を観察していたら休憩時間は残り少なくなっていた。
「そ、そうですか……」
「カルレイン様も嘘泣きかどうかの判別にお使いください」
「いや、俺はそんな判別の機会はないと思いますよ……?」
侍従は笑って一礼してきびきび去って行く。
今殿下が嘘泣きをしているかはここからは見えない。あれは嘘泣きなのか?
しかし、意外にも早い段階で俺は再び殿下の泣き顔を見ることになるのだった。




