71-1 新たなる一歩
海を眺めながらスコーンを口にする栞。
渇いた口に紅茶を流し込む。
一食数千円を越える軽食、お金持ちが集うラウンジに場違い感を感じつつ、誕生日くらい良いだろと自分に言い聞かせる。
それでも、栞がいるお陰で居心地の悪い思いをしないでいられる。
栞は普段こそ気さくで気取った様子は見せないが、こういった所での所作は完璧なのだ。
まるでどこかのお嬢様、いや、どこかの国のお姫様かと思う程に美しい。
周囲の人達のため息がいまにも聞こえそうだ。
この栞の所作、居ずまいの正しさ、子供の頃はあまり気にしなかった。
しかし最近になって気付かされるようになった。
だからこそ彼女は友達が多くいるのだろう。
どんな友達ともフレキシブルに対応出来る。
そして決して無理をしているわけではない自然その物なのだ。
TPOをわきまえた行動、相手に対する態度、そして細やかな気遣い。
それこそが天才的なコミュニケーション能力なのだ。
それは俺に対しても同じだ。
栞は常に俺を楽しませてくれる。
俺がこうあって欲しいと思った通りの妹なのだ。
いや、妹だったと言っておく。
そう……俺に対する愛情表現以外は……。
そこだけは俺の描いていたイメージと大きく解離している。
ここに来てはっきりしているのは、妹は俺とそういう関係になりたがっている。
俺と本気で恋人同士になりたがっている。
いや、もう恋人を通り越し嫁になりたいと……。
もうそれははっきりとしている。
当初俺と妹はお試し感覚で、そして兄妹として付き合うという曖昧な状態から新たな関係が始まった。
今までの兄妹の関係をぶち壊し、去年の春新たに始まったのだ。
恐らく怖かっただろう、ずっと続けてきた関係を壊してしまう事に。
栞は苦しんでいたのだろう。
俺にはそれが痛いほどわかった。
だから俺は栞を受け入れた。いや、受け入れたって思っていた。
でもそれはある意味逃げだったのだ。
この間、俺が記憶を取り戻したあの瞬間、それがはっきりとわかった。
そしてそれがはっきりした時、俺が栞に対して思っている気持ちに変化が起きた。
いや、あらためて気が付いたと言っておこう。
そう……俺は今栞に対して特別な感情を抱いている。
これが恋なのか? 俺にはわからない……でも、今までとは違う気持ちを持っているという事ははっきりとした。
俺は目の前で美しい所作で紅茶を飲む妹を改めて見つめる。
今までは妹というフィルター越しで見ていたが、そのフィルターを外し改めて彼女を見ると。
はっきり言って……可愛すぎるのだ。
美しく長い艶やか黒髪、黒目がちのつぶらな瞳、整いすぎる鼻、ピンク色の可愛い唇。
直接見た事は無いが、テレビに映るタレントやアイドルよりも可愛いのではないだろうか?
俺は今までずっと世界一可愛いのは美月だって思っていた。
いや、俺がロリコンとかじゃない……勿論子供という意味での可愛さなのだが。
りすや、子猫のような可愛さ、そしてその外見とは裏腹に優れた、優れすぎる頭。
俺は以前から思っているのだが、ユーモアのセンスを持っている者が頭のいい人だって。
勉強出来るイコール頭が良いとは思っていない。
人を笑わせるには、知識が豊満なのは勿論、その場の空気が読み、更には相手を知らなければいけない。
会話の中でそれらを織り交ぜ相手を笑わせる。笑顔にさせる。
美月はそれに長けている。
だからこそ俺は美月が可愛いと思ってしまう。
そして、それは栞にも当てはまるのだ。
頭がよくユーモアに溢れ可愛く美しくそして強い……栞はそんな完璧な女の子なのだ。
唯一の弱点、最大の欠点はて実の兄に恋をしてしまっている事なのだろう。
そんな妹を俺は心の底から愛しく可愛いと思っている。
でも……その気持ちに変化が起きた。
愛しく可愛いという思いの中に……ある一つの変化が。
妹はずっと苦しんできた、俺はそれを知った……知ったつもりだった。
でも、俺は思った。
それは知ったつもりだったと、知ったかぶりに過ぎないって事を。
妹の栞の苦しみ……その意味を俺は本当の意味で知ってしまった。
だから、今夜俺は賭けてみようと思っている。
今夜は誰にも邪魔されない……明日の朝まで二人きり。
そこで、何が起きるかに……。
二人の間に何が起きるかに俺は賭けてみようと思っている。
「お兄ちゃん? 大丈夫?」
「あ、ああ」
「全然食べて無いけど……」
「あ、食べる食べる」
そう言って俺はサンドイッチを頬張りコーヒーで流し込む。
船が行き交う海を眺め、ゆったりとした時間を二人で楽しむ。
いつものように、まるで家のリビングでのお茶会のように俺と栞の会話が弾む。
他愛ない会話、学校の事、先生の事、授業の事、生徒会の事、二人でクスクスとかじゃなく笑い合う。俺が美月の事を話すと栞は少しだけ不機嫌になるのもいつも通りだ。
そして食事を終え、会話も一区切りした所で栞は時計を見て少し照れ臭そうに切り出す。
「じゃあ、お兄ちゃんテレビそろそろ行こっか」
「あ? ああ、そっか、うん」
時間は午後3時ちょっと前……今夜俺達が泊まるホテルのチェックイン時間が迫っていた。
俺の背筋に緊張が走る。
リラックスしていた身体が強ばる。
日常から非日常に移行する。
この緊張は一体なんなんだろうか?
今夜起こるかも知れない事への期待と不安なのか、それとも俺達が築いていた物が崩れる前触れなのか?
今の俺には知るよしもなかった。




