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30話 因縁のあの人

――後頭部がずきずきする。


痛みを感じて目を覚ますと、わたしは手を後ろ手に縛られた状態で床の上に転がされていた。

次いで周囲を見渡すと、窓のなくて暗い。空気の流れがほとんど感じられず、どこか淀んでいて重苦しい。どこかの建物の地下室のようだった。


ああ、わたし、誘拐されちゃったんだ……。


重たく閉ざされた扉の隙間から、わずかに吹き込んでくる風が、ひやりと頬をなでる。

相変わらず、首には冷たく重い金属がはめられている。魔力の流れが押さえ込まれていて、指先にすら力が集まらない。

背後できつく縛られた両手がじくじくと痛み、膝は硬い石床に擦れて、じんとした鈍痛が脈打つように広がっていた。


それでも、私はうつむかなかった。


扉の向こうから、足音が響いてくる。

規則正しく、ゆっくりと、けれどもどこか尊大な響きを含んだ足取りだった。


「……ようやく見つけたぞ」


声を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。


第一王子、アレクシス殿下。

かつて私の婚約者であり、私を“偽物の聖女”だと断じ、容赦なく追放した男。

彼は私の姿を見るなり、唇の端を勝ち誇ったように持ち上げた。

私は眉を吊り上げる。


「アレクシス殿下……!今更、何の用……?!」


わたしに怒りを向けられても歯牙にもかけず、事も無げに言う。


「ああ、実はな……。どうやら――お前こそが“本物の聖女”らしいな」


「はあ……?」


呆けた声が自然と漏れた。本当に、何を今更……。


「お前を追放してから、国に張られた結界の力が急激に弱まり始めた」


彼は顎に手をやり、まるで人ごとのように言葉を続ける。


「調べてみたら、あの結界はただ魔力を注ぎ続けるだけでは保てない。定期的に“聖女の祈り”が必要なのだそうだ。……つまり、聖女であるお前の力が必要なのだ」


ああ、やっぱり。

そうなるんじゃないかとは思っていた。


予想が的中したというのに、心はひどく冷め切っていて、まぶたを一度ゆっくりと閉じただけで何の感情も揺れなかった。


「まぁ、偽物だと思ったのは仕方のないことだ」


殿下は鼻先で笑い、冷ややかに言葉を継いだ。


「お前の言う精霊など、他の誰にも見えはしなかった。それに……みすぼらしいお前は、聖女とはかけ離れていたからな」


視線をこちらに投げると、口の端を嘲るように吊り上げる。


「聖女に関する真実は、王位を継ぐ者にのみ密かに伝えられる仕組みだったそうだ。だが、父上が倒れたのはあまりに唐突だった……ゆえに、私に伝えられる前に途絶えてしまったのだ。

仕方のなかったことだろう?そもそも、あの結界が初代の聖女の祈りによるものだと、知らされてもいなかったのだから」


言い訳。それ以外の何物でもなかった。

聖女であるわたしを間違えて追放したというのに、謝罪の言葉なんて一つもなかった。

彼の言葉はすべて、自分の過ちを“事情”や“誤解”にすり替えて、責任を帳消しにしようとするものでしかない。


胸の奥に、静かに、確かに怒りが芽吹いていく。

けれど私はそれを押しとどめ、ただ冷ややかに彼を見つめ返した。


「追放はなかったことにしてやる。お前は再び聖女として戻れる。……なんなら、婚約者の座も、戻してやってもいいぞ?」


殿下は勝ち誇ったように顎を反らし、当然の権利であるかのように言い放つ。

その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かがぱちん、と音を立てて弾けた。


――戻す? 私を? あの地獄に?


脳裏に甦るのは、“聖女”としての日々。

自由など、かけらもなかった。

教会での生活は――まるで地獄だった。


聖女の部屋に与えられた一室は、質素というよりも粗末だった。

木製の机と椅子が一つずつ、寝具と呼べるのは薄い毛布が一枚だけ。

高い位置に穿たれた小窓から、わずかに光が差し込むだけで、日差しも風も届かない。

そんな冷たい箱のような空間で、私はイグニと二人、ひっそりと寂しく過ごした。


周囲の貴族出身の聖職者たちは、平民出の私を露骨に見下した。

掃除や洗濯といった雑務を当然のように押し付け、夜明け前には叩き起こされ、鐘が鳴るよりも早く祈りを強要された。

祈りが終われば、休む間もなく、尽きることのない雑務が延々と続く。


「聖女は王族と結婚する」――その古い慣習に従って、私は第一王子アレクシスと婚約した。

ほんの一瞬だけ、期待したのだ。

婚約者が庇ってくれるのではないか、この状況が少しでも変わるのではないかと。

けれど現実は、無情にその淡い期待を踏みにじった。

訴えても、殿下は冷ややかに言い放つだけだった。

――お前が平民なのだから仕方ないのだろう。せめて見栄えが良ければ、まだマシだったのに。

むしろ、私への扱いは悪化した。

夜会に同行しても、殿下は一言の気遣いすら寄せてはくれない。

貴族たちから嘲笑を浴びても、見て見ぬふりをするどころか、彼自身が彼らと一緒になって私を嘲った。


――すごく、悲しかった。


あの頃の私は、どうかしていたのだと思う。大人しく命令に従っていれば、いつか報われると信じていた。

でも今ならわかる。

私は、洗脳されていたのだ。


あまりにも過酷な日々に、思考は鈍り、心も麻痺していた。

――あんな生活、もう二度とごめんだ。


だって、わたしは知ってしまった。

精霊たちと冒険する楽しさを。好きなことをして生きる喜びを。


私は、口を開いた。

縛られた手に力を込めながら、声が震えないように、深く息を整える。


「……お断りします」


「なに?」


アレクシスの眉がぴくりと動く。疑問と苛立ちがないまぜになった声音。


「――あんたと結婚するくらいなら、死んだほうがマシ!」


私は、にっと笑った。愕然とする殿下を尻目に、べっと舌を出した。

次第に殿下の顔がかぁっと赤く染まっていく。怒りか、羞恥か、あるいはその両方。


「なら――仕方あるまい」


殿下は唇を歪める。まるで、差し出した慈悲を踏みにじられたことが許せないとでも言うように。

彼の怒鳴り声が、冷たい地下室に反響した。


「他国に渡ってしまうくらいなら……望み通り、ここで死ぬがいい!」




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