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26話 深淵から覗く目

深い、深い、闇の底へ引きずり込まれる。


ああ……冷たい。

海が、わたしを呑み込もうとしている。


必死に水をかき分けても、触手の力は鋼のように硬く、容赦なく深みへと沈んでいく。

水面から差し込む光はすでに遠く、闇が全身を塗りつぶしていった。


そして――海底の暗がりで、それは待ち構えていた。


爛々と輝く巨大な眼。

真紅の光が闇を裂き、わたしを射抜く。

その視線に触れた瞬間、胸の奥に氷の刃が突き刺さったような感覚に襲われる。


――憎しみ。

――怨嗟。

――この世のすべてを呪う、おぞましいほど底なしの感情。


それは言葉ではなく、直接、心に叩きつけられる。


『ア゛ァ……セカ……ニクイ、

……イジョ……デメッセネ……ヌ!』


脳髄に響く呪詛。

全身の血が逆流するかのような衝撃に、思わず呼吸を乱した。

心臓を握り潰されるような悪意に、意識が飲み込まれそうになる。


「――っ……!」


わたしは必死に首を振った。

ダメッ!

屈するわけにはいかない。


心臓は恐怖に震えていた。

けれど同時に――私は、強く確信する。

本能が叫んでいる。

こいつは、この場で絶対に討たねばならない、と。


「負けるもんか……ッ!」


わたしの声は泡に変わって消えた。

だが確かに、闇の中で響いた。


わたしは震える指先を突き出し、必死に魔力をかき集めようとした。

だが――


「――っ!」


魔力を高めるよりも早く、闇の中から伸びてきた触手が襲いかかってきた。

鞭のようにしなる速度、鋼のような硬さ。

避ける間もなく絡みつかれ、全身を容赦なく締め上げられる。


骨が軋み、肺が圧迫される。

腕を動かそうとしても、びくともしない。

まるで海そのものが生き物となって、わたしを捕らえているかのようだった。


(くっ……離して……!)


必死に魔力を練ろうとするが、集中する前に胸を締め上げられ、声にならない。

身体に纏わせていた空気の膜がぶちりと破裂し、冷たい海水が一気に流れ込んできた。


「――っ!」


喉が焼けつくように痛い。

必死に口を閉ざすが、酸素は一気に奪われ、頭がくらくらと揺れた。

息が、できない。

肺が灼けつくように痛み、視界が暗転していく。

もがけばもがくほど、触手はさらに強く締め上げてくる。


意識が途切れそうになる、その刹那。


『……アメリア!しっかりしなさい!』


耳元で、はっきりと声がした。

透き通った、水の雫のように澄んだ声。

わたしの小さな精霊――ティアの声だった。

その声が、今にも暗闇に沈みかけた心を強く引き戻す。


『今、助けるわ……!――《アクアスラッシュ》!』


直後、水流が鋭利な刃となって奔り出す。

巻き付いていた触手を斜めに裂き、鉄すら断ち切るかのごとき鋭さで引き裂いた。

ぶちぶちと肉が裂け、暗い水中に濁った血潮が渦を巻く。


わたしの身体を縛っていた拘束が、一気に緩む。


(今だ……!反撃の時――!)


全身が悲鳴を上げるなか、わたしは震える指先を前へ突き出した。


(……《アクアランス》!)


海中に無数の槍が生まれる。

光を反射して煌めいたかと思うと、轟音すら立てる勢いで、次の刹那には稲妻のような速度でクラーケンの顔へと解き放たれた。


――ズブッ!


巨眼がひしゃげ、赤黒い液体が海に広がる。

怪物が苦悶の咆哮を上げ、のたうち回る。


その隙に、わたしは渾身の力で水を蹴り上昇する。

肺に残った最後の空気を吐き出しながら、ただ必死に水面を目指した。


――ばしゃん!


顔が水面から飛び出した瞬間、喉が勝手に空気を吸い込む。

冷たい風とともに肺へ流れ込んだ酸素に、思わずむせ返った。


「はぁっ……はぁっ……っ!」


涙と海水とで視界が滲む。

けれど、荒く上下する呼吸を無理やり整えながら、わたしは真下を見た。


海中の影は、まだ沈んではいなかった。

槍に貫かれたクラーケンは、巨体をくねらせ、海を血で染めながらも触手を振り回していた。

その動きは鈍ったものの、確実に怒りを増している。


「くそっ――倒し切れていない」


震える身体に言い聞かせるように、わたしは再び両手を構える。

今度は、逃げ場を作るためではなく、確実に仕留めるために。


波間で揺らめく水の精霊ティアが、静かに囁いた。


『覚悟はできてる?ここで終わらせるのよ、アメリア』


「……分かってる。次は――決める」


逃げるという選択地はない。

わたしの周囲で水が渦を巻きはじめる。

広がる魔力が潮流を変え、荒れ狂う波を呼び寄せる。やがてそれは、大海そのものを槍へと変える、渦の魔法へと形を変えていった。


わたしは胸元に手を当て、目を閉じた。

暗闇の底で見た、あの赤い瞳を思い出す。

そこに渦巻いていたのは、果てしない怒りと哀しみ。

それを消し去るつもりで――


「来て――《アクア・サンクティス》!」


瞬間、海そのものが光に震えた。

水面から立ち上がる水柱が、純白の輝きを帯びて空へ伸びる。

その光はやがて海中へと流れ込み、聖なる潮流となってクラーケンを呑み込んだ。


「グォォォオオ――!」


轟く断末魔。

触手が狂ったようにのたうち、巨体が泡立つ海へ沈み込んでいく。

赤黒かった瘴気は光に洗われ、まるで夜明けに霧が晴れるように消え去っていった。


最後に見えたのは、苦しげに震える巨眼。

だが、その輝きはもう赤ではなく、どこか哀しみを帯びた淡い影色だった。


――やがて海は静けさを取り戻す。

白い光だけが漂い、まるで神殿の中にいるかのような神聖さが辺りを包んでいた。


「……終わった、の?」


膝から力が抜け、わたしは波に揺られながら空を仰いだ。


本日は2話更新します。

18:10頃に更新予定!

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