17話 VS???
数日後――とうとう、わたしたちは夜の森を離れることになった。
その間、農作業をしたり、料理をしたりして。
わたしと精霊たちは、森の奥で、穏やかで豊かなスローライフを満喫していた。
けれど、いつまでもここに留まるわけにはいかない。
長く続いた浄化の任もようやく終わりを迎え、森を覆っていた瘴気はすっかり消え去っていた。
「……そろそろ、行こうか」
静かにそう呟くと、肩に乗っていたイグニが、名残惜しそうに「うん」と頷いた。
アイテムボックスに日用品をひとつずつ収めていく。レンガで組んだ小屋は、土魔法でさらさらと土に還していく。
最後に張っていた結界を静かに解除すると、森の風がすうっと通り抜けていった。
「じゃあね、夜の森」
意気込んで一歩を踏み出した、そのときだった。
風さえも止まり、木々はまるで呼吸をやめたかのように沈黙した。
森を満たす空気が、異様な重さを帯びてゆく。
「……ようやく、お出ましだね」
わたしは足を止め、薄く唇を結ぶ。
その瞬間、空気がびり、と裂けた。この数週間、ずっと感じていた“視線”の主が、ついに姿を現したのだ。
地の底から噴き上がる黒い霧。
ざわり、と木々が身をよじり、あっという間に辺りが闇に飲まれていく。
そいつが現れると、まるで夜が来たみたいに辺りが暗くなる。
生み出される濃密な瘴気が上空を覆い隠し、昼間にもかかわらず陽光は一片たりとも地に届かなくなる。
ざわ……ざわざわ……。
瘴気そのものが音を立て、闇が生きているように脈打ち、呼吸する。
やがて、霧の向こうから、それはゆっくりと姿を現した。
巨大な黒い猪――筋骨隆々たる体躯に漆黒の毛並み。
獰猛な牙が月光のない闇の中に鈍く光り、六つの眼が怪しく瞬いていた。
――夜の森の主。
この森に古くから棲みつく、支配者にして、特級指定の魔物。
見るだけで背筋が凍る、異界の闇をまとった存在だ。
「夜の森には恐ろしい魔物が潜むから近づくな」と人々が語り継いできた、その正体がいま目の前にある。
『アメリア、あいつは危険だ……』
背後に浮かぶユグルが、珍しく強張った声を出す。
「わかってる。あれが“森の主”なんでしょ?」
『無理に戦わなくていい。君が怪我したりしたら――……』
「でも、あれを放っておいたら、また瘴気が生み出されるんでしょう?せっかく浄化したのに、無駄になっちゃう」
それに、逃げられるとも思わなかった。
瘴気を払われて怒っているのか、強い殺気を感じる。森そのものが、あの魔物の支配下にあるような圧力が、四方八方から押し寄せてくる。
ぶるりと身震いする。武者震いと言いたいところだったけど、全然違う。
本当は怖くてたまらなかった。心臓が張り裂けそうなくらい脈打つ。だって、前世はただの女子高生。聖女と呼ばれても、魔法が使えても、中身はただの女の子だ。
怖い。けど、戦わなくちゃ。
そう、世界を守るために――。
……世界が滅びるかもしれないなんて話を聞かされた後じゃ、おちおち冒険も楽しめないからね!
わたしは胸の前で両手を組み、息を静かに吸い込む。
次の瞬間――
「《ファイアボール》!」
ぱんっと弾けるような音とともに、わたしの周囲に次々と火球が生まれた。
中心に立つわたしの髪がぶわりと熱風に舞い上がり、視界の端で赤々と揺れる。若葉色の瞳に灯る光が、闇を貫くように“それ”を射抜く。
「いっけぇっ!」
生み出した火の球を一斉に放つ。
炎が奔流となって闇を裂き、夜の森を一瞬にして赤く染め上げる。
「……よしっ!」
勝利を確信しかけた、その刹那。
炎の帳を押し分けるように、黒き巨猪が姿を現した。
全身を焼き尽くすはずの熱をものともせず、むしろその身に炎を纏うように悠然と歩を進めてくる。
肌を焦がすほどの熱を浴びても、苦痛の色すら見せない。 六つの眼がぎらぎらと光り、逆に獲物を値踏みする冷たさでわたしを見下ろしていた。
「……なるほどね」
唇を噛み、わたしは吐き捨てる。
「さすが、ただのモンスターとは格が違うってわけだ」
ガアアアァァァッ!!!
獣の咆哮が森を震わせる。
地を削るような蹄の音とともに、“夜の森の主”がこちらへ突進してきた。
その巨体は、まさに破壊の塊。振動が足元から響いてくる。
「わっ、まずい……!」
避けようとするけど、間に合わない。突進が、速すぎる――!
そのときだった。ユグルが庇うように前へ出る。
「《タングル・グロウス》ッ――!」
バシュッと音を立て、地面のあちこちから木の根がいっせいに飛び出した。
それはまるで生きている蛇のようにうねりながら、突進してくる大猪の足元を狙う。
太く逞しい根が、突進の進路を横切るように伸びて絡みついた。
「ッ!?」
巨大な猪の魔物がバランスを崩した瞬間――
根が脚を取った。
そのまま勢い余って、夜の森の主が地面に叩きつけられた。
ドオォンッ!!
巨体の衝撃に、森全体がどよめく。折れた枝が宙を舞い、闇のなかに舞い上がる砂塵。
その中心で、倒れ伏した黒き猪の魔物が低く唸りをあげた。
『今だ、アメリアっ!』
ユグルの声が風を裂いた瞬間、わたしは一歩、前へと踏み出した。
風に舞うストロベリーブロンド。紅と金を溶かしたような光が暗闇のなかで反射して、視界の端まで広がっていく。
「――この一発で、終わらせる」
胸の前で組んだ両手に、熱が集まる。
肌の下で脈打つ魔力が火花を散らし、わたしの身体そのものが灯火と化すかのように輝きを増していく。
「聖なる火よ、天より轟け――《セラフィック・フレイム》!」
瞬間、音もなく落ちた――
一条の炎が、天より神の槍のように降り注いだ。
闇に包まれた森の中、その一角だけが白く灼かれる。
聖火のごとき炎が黒き魔物の全身を貫き、輝きとともに焼き尽くす。
魔物の雄叫びがこだまし、やがて消える。
残されたのは、灰のように崩れ落ちる黒き塊と、静寂。
膝ががくりと折れた。
強力な魔法を放った反動で、糸がぷつりと切れたように全身から力が抜け落ちる。支えを失った身体は、重力に引きずられるまま地面へと崩れた。暫くは動けそうにない。
戦いの余熱が肌を伝い、心臓がまだ早鐘のように打ち続けている。
『おーやったぁ!……アメリア、勝ったぜ!』
イグニの歓喜の声に、わたしは力なく微笑む。
「うん。……これで、夜の森も、少しは静かになるかな」
見上げた空が、少しずつ明るくなっていく。
霧のすき間から差し込む光が、金の筋になって森を照らす。
夜が、終わったんだ――。
こうして、夜の森の主は討たれ、長く続いた瘴気の支配に、幕が下りたのだった。
今日でスローライフ編は完結です!
あと、試験的にタイトルを変えてみました。「ちっちゃくてかわいい精霊」が一番の売りかな~と思いまして……。
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