8話 どうして……
まるで頭から冷水をかけられたよう。わなわなと唇が震え、押し込めていた気持ちが言葉となってこぼれ出す。
「どうして……どうして、お姉様はそんなことをおっしゃるの。わたしのことがお嫌いだとしても、ダニエルに無理を言うのは違うのではないですか」
声を震わせて訴えても、姉はその表情を崩すことはない。じわりとにじむ涙が視界をゆがめた。
「お姉様を不安にさせた罰ならわたしが受けますから、だから」
リリアーナさん、と隣にいたダニエルがそっとリリアーナの手を包み込むように触れた。その温かさがまた涙をにじませる。どうしてこんなに自分は考えなしで、無力のだろう。ダニエルに迷惑をかけることしかしていない。
「そうね、期限は三か月にしましょう」
もしかしたらダニエルは用意できるかもしれない。でもそれは彼のたくさんの犠牲の上に成り立つものだ。お金にしろ、時間にしろ、本来ならする必要のない苦労を負うことになる。
(ダニエルは、私にいいように利用されてるだけ。お姉様に歯向かわないっていうポーズのためだけに。こんなにいい人なのに……)
熱いしずくが頬へすべり落ちていく。
「リリアーナ。彼が何も用意することができなかったのなら伯爵家へ戻ること。期限前に辞退するのならそれでも結構。その際は令嬢として然るべき相手と結婚なさい。いいわね」
仕方ないと思った。もとより令嬢として育てられた身だ。恋愛で結ばれた結婚なんて考えてもいなかったではないか。いつの日か父の持ってきた見合い相手と結婚して、少しずつ夫婦になっていくと思っていたではないか。
ほんの少し、素敵な夢を見ただけ。
好きな人と笑いあう暮らしを、少しだけさせてもらえたのだから、もういいと思うべきだ。残りの時間を大切に過ごして、それで。
「……わ、かり、ました」
こんな無茶な要求は受けないようダニエルに言って、それから伯爵家へ戻ろう。離ればなれになるのはツラいけれど、彼が自分のせいで苦労するよりよっぽどいい。ありがとうと言って、振り回してごめんなさいと慰謝料を渡して、夢のような結婚生活はおわり。そうすべきだ。
ダニエルの大きな手がリリアーナの震える手をきゅっと握りしめる。
それがどうしてか、諦めるなと言われている気がした。そんなはずがないのに。
「もし」
情けない顔を見られたくなくてうつむいた姿勢でいると、頭の上でダニエルの声が聞こえた。
「もし俺が、リリアーナさんに相応しいジュエリーを用意できたら」
いつもの気弱さなど一切感じさせないはっきりとした声は、どうしてだかリリアーナの胸を熱くする。
「相手を俺にとは間違っても言いません。だけどリリアーナさんが嫌がる相手との結婚は、どうかやめてあげてください」
どうして、なんで、とダニエルに聞きたい気持ちがあるが、それ以上に胸がいっぱいでなにも喋ることができなかった。これ以上彼を好きにならずにすむ方法があるのなら教えてほしいと心底思った。
「リリアーナさんが望む相手と結婚できるようお願いします」
顔が上げられない。ほろほろと流れる涙が止まらないからだ。
「……強欲なこと」
小さくこぼす姉だったが、その声音は少し愉快そう。
「わかりました。その望み聞き入れましょう」
◇
リリアーナが泣いた顔を見せられないというので、今日はこのまま屋敷に泊り、ダニエルだけが帰ることになった。そのことに少しだけほっとする。
豪華な屋敷。ここが本来彼女が過ごすべき場所なのだと思った。大きくて清潔で、使用人だけでも数十名いて、全ての家事や雑務は彼らがこなしてくれる。主人たちは食事をしたり、趣味に勤しんだり、優雅なに過ごすことへ時間を費やす。間違っても自分でナイフを持って料理をしたり冷たい水で洗濯をすることはない。
石畳が引かれたエントランスも、庭のあつらえも、今まで見た事がないほど立派なもので、何もかもがダニエルの暮らしと違う。
小さな家で夫婦のように過ごした日々はダニエルにとってかけがえのないものだ。けれどそれは偽りに過ぎず、決してリリアーナをとどめていい場所ではない。
彼女が貴族のお嬢様だということに改めて身の引き締まる思いがした。決して傷つけてはいけない宝石で、だからこそ、ダニエルの隣で涙を流す様子が目に焼き付いて離れない。
リリアーナがあの貴公子との結婚を嫌だというなら、どんな事をしても止めたい。例え貴族に楯突くことになってもだ。ダニエルはあの申し出をしたことに一切の後悔はなかった。
しかし具体的にどうしていいかまではわからなかった。ひとまず物の相場を確認して、その上で自分がどれくらい稼ぐことができるか考えるべきだろうか。考え事に没頭しながら家への道を歩いていると、遠くから騒ぎが聞こえてきた。
「暴れ馬だ気ぃつけろ!」
見ると栗毛の立派な馬がひどく興奮した様子でこちらへ走ってくる。
「人が乗ってるぞ」
「気ぃ失ってんじゃねえか!?」
ちょうどダニエルのすぐ近くまで迫っていた馬の上から何かがぐらりと落ちてきた。さすがに目の前で人が怪我をするのはしのびないので駆け寄ってなんとか受け止める。その時の衝撃は結構なもので、魔力持ちだからなんとか耐えられた気がする。ダニエルは助けた男をそのまま地面に寝かせた。
「大丈夫ですか」
返事はない。ぺちぺちと頬を叩いてみても反応はない。呼吸はあるし心音も聞こえるので気を失っているとみていいがどうしたものだろう。馬は主人を振り落としたことに気分が治まってきたようだ。鼻息荒く全身から汗を拭きだしているが、歩を緩めてこちらを伺っている。
「うぅ……っ」
男が低く唸る。
「大丈夫ですか、起きれますか」
返事のようなものがあるが不明瞭だ。
周囲に人が集まってきたが誰も手を貸してくれる気配はない。
仕方がない。馬の手綱を引き、ずんぐりむっくりした男を担いで歩きだした。筋肉質なのか見た目よりも重い。この体型に燃えるような赤毛、それと立派と蓄えられたひげ。噂に聞くドワーフ族かなと当たりをつける。彼女の了解もなしに家に上げてはまずいだろうから納屋に寝かせようかと歩きながら考ていた。
「……おめえ大の男担いであんな風に歩けるか」
「腰の調子がよけりゃいけるさ」
「おめえの腰が本気だしたとこ見たことねえよ」
ざりざりと砂利を踏む音が耳につく。
周囲の話し声も。
「ちげえな、見ろ。ありゃ魔力持ちだ」
「なんだぁ。なら人助けして当然だな」
「持つ者の義務ってな」
ちらちら聞こえる会話は気にしないようにしながら、ダニエルは家路へとついたのだった。




