18話 本当にごめんなさい
緊迫した雰囲気に突如投下されたポチのフルネームに、リリアーナは一瞬ぽかんとする。
そういえば姉はペットを飼ってみたくてつい名付けに張り切ったと言っていた。きっと古典や辞書のページをめくりながらうんうん唸ったに違いない。
(……お姉様、張りきりすぎだわ。でもそんな所がお茶目ですてき)
やっぱりリリアーナは姉が好きだと思った。
完璧で少し不器用。美しくてかわいい。ちょっと疎ましく思いながらもリリアーナの面倒を見てくれるのは心根が優しいからで、本当はちょっぴり寂しがり屋。小さな頃から両親がうるさく干渉するので姉と一緒に過ごせた時間は少ない。でもそのわずかな時間のなかでもクリスティアーナの素敵なところをたくさん知れた。
リリアーナは姉が好きだ。
だから、いつだって姉の味方でありたい。
(お姉様とゆっくりお話ししたい)
すっかり思考をよそに飛ばしている間にジョセフは悪態をつきながら去っていった。ヴィクターも何か言いたげな視線を残して後に続く。
「またね、リリアーナ」
「……はい」
気晴らしに外へでたのに、とんだトラブルに巻き込まれてしまった。ポチが迎えに来てくれなかったらどうなっていたことか。
「このまま家へ帰るか?」
「いいえ。今日はお屋敷に帰ろうと思う。お姉様に会いたいの」
「じゃあ先に連絡を入れておくか」
「お願いするわ」
姉と一緒に過ごしたいのは本当。しかしそれとは別に、なんとなく嫌な予感がするのだ。様子が気になったとか適当に理由をつけたヴィクターが家に来そうな気がする。今までジョセフがそんな行動にでなかったのは単にリリアーナたちの住む家を知られていなかったからだと思う。けれどヴィクターは違う。家の場所なんてとっくに知っていて口実を待っているだけのような、そんな気がしてならない。
この際、少し屋敷のほうに滞在してもいいのかもしれない。そこならもしヴィクターやジョセフが訪ねて来たとしてもいくつか選択肢がある。理由をつけて断ることもしやすいだろう。ダニエルがいないのなら慎重に行動するに越したことはない。
そこでふと思い出した。
「そういえばダニエルはあなたをポチと呼んでいたけど、それはいいの?」
「俺は美しい女と強い男が好きだからな。あいつはなかなか見所がある」
ポチなりの基準があるらしい。
「以前、俺が夫人を口説いて、ダニエルに助けを求めた時があっただろう。見せてやりたかったぞあの時の奴の目を。俺が夫人に手を出せば絶対に殺す気だったろうさ」
まさか。優しくて穏やかの代名詞がダニエルだ。そんな物騒な面があるとは信じがたいけれど、ポチが彼を評価しているのならわざわざ口を挟む必要もない。それにリリアーナを守ってくれるダニエルという図がとてもよくて胸のきゅんきゅんが止まらない。
「この俺に正面向かって盾突く男はそうおらん。おまえは自分の夫を誇っていい」
「……うん」
リリアーナはこの日はじめてポチにもいい所があると知り、感慨深くなった。
◇
「お姉さま、ポチを寄こしてくださってありがとうございます。困っていたので助かりました」
屋敷に着くなり姉の執務室へ行ってお礼を伝えた。
「聞いたわ。ジョセフとヴィクター様と会ったそうね。……本当に困った人たちだこと」
ふうと小さくため息をもらす姉は今日もキレイだ。姉の侍女が椅子を勧めてくれたのでそのまま腰をかけるとすぐさまお茶を出してくれる。
「あなた、ヴィクター様のことはどう思う?」
そう言って姉はリリアーナを見つめる。
「小さい頃に少し交流があった程度なので特に思うところはないというか……」
「好ききらい以前に、関心が薄いということね」
いきなりどうしたのだろうか。
「……ダニエルのことは?」
「大好きです!」
「即答ね。どういう人なのかしら」
そこでリリアーナはダニエルがいかに優しくていい人なのかを一生懸命伝えた。一緒にいる自分がどんな気持ちになるか、どんなに嬉しいかも。
ついつい話しすぎてしまったようだ。姉が目を細め面白そうにリリアーナを眺めているのに気付き、慌てて口を閉じた。
「申し訳ありません、つい」
リリアーナはお茶をひと口飲んで気持ちを落ち着かせる。ほっと息を吐くと、先ほどヴィクター達が話していた内容がふと思い起こされた。
「あの……ジョセフ様とは婚約を解消されたと聞きましたけど本当ですか?」
「ええ。さすがにあのままではいられないから」
姉の感情は見えない。
けれどもリリアーナは頭を下げ、改めて謝罪をした。
「本当にごめんなさい」
部屋にしばしの沈黙が落ちる。
「……あなたのせいではないもの。それとも、姉の婚約者を取ってやろうと思っていたのかしら」
「いいえ、誓ってそんなことありません! お姉さまの伴侶となる方だから、きっと素敵な男性なんだろうと憧れはありましたけど……でも、本当にどうかなりたいって気持ちはありませんでした。知らずに勘違いさせる行動をしていたのかもしれません。もう他の男性に無意味やたらと愛想を振りまくことはいたしません」
リリアーナにも悪いところはあった。
繰り返すような愚かな真似はしたくない。
顔上げなさい、と姉が静かに言った。
「……きっとね、好きではなかったのよ。あなたと仲良くしていて面白くない気持ちは確かにあったのだけど、彼個人を尊重していたかと問われると……よくわからないの。さっきあなたが嬉しそうにダニエルのことを話していたけれど、そういうふうに思ったことはなかったわ」
窓の外へ視線をやるクリスティアーナの表情はどこか憂いを帯びている。
「誰かを好きになるって気持ちが、私にはないのかもしれないわね」
「……いいえお姉様。お姉様にはきちんと好き嫌いの気持ちがあると思います。だって甘いデザートはお好きでしょう? そのなかでもアプリコットのタルトが特にお好きでしょう?」
「食べ物と人を一緒にしていいのかしら」
「いいんです」
呆れたように笑う姉に、リリアーナは嬉しくなった。
それからしばらく取り止めのない話をしていると、こんこんと扉が叩かれ、ポチが現れる。
「クリスティアーナ。客人だ」
「姉妹の歓談中にどなたかしら」
あらかじめ約束があったわけではなさそうだ。
「侯爵家子息ヴィクター・ラングストン。先ほどの騒動でリリアーナが胸を痛めていないか心配で来たと言っているぞ」
リリアーナは息を呑む。街で会ったのでさえ驚いたのに、まさか今日の今日でお屋敷まで来るなんて。ポチはリリアーナへ目を向ける。
「夫人の同席を望んでいる」
「そんな」
かたりと音を立てクリスティアーナが椅子から立ち上がった。先ほどと打って変わって好戦的な目つきだ。きっと口元にも笑みを浮かべているだろうがすでに扇子で隠されていた。
「……隠れてコソコソするのはやめたようね」
姉はリリアーナへ向き直った。
「リリアーナ、ひとつ確認よ。もしヴィクター様からプロポーズされたらそのお申し出を受ける?」
「いいえ。私はもうダニエルの妻ですもの」
間髪いれない答えにクリスティアーナがくすりと笑う。しまったと思った。姉ならきっとロングストン家の情勢や結婚によるメリットデメリットを考慮しただろうに、自分の気持ちひとつで答えてしまった。リリアーナは頬を赤らめながらしゅんと肩を落とす。
「いいわ。あなたはここから出ないように。ポチ、私が戻るまでこの子のそばにいなさい」
そう言って立ちあがり、笑みの中に強い眼差しを見せる姉。窓から入る明かりがクリスティアーナを神々しく照らす。長いまつ毛が縁どる瞳、美しく整った顔立ちに、洗練されたドレス。指先の動きひとつひとつが優雅で、まるで生ける芸術品のよう。
「私はまだダニエルを認めていないけれど……横やりは好きじゃないの。こそこそ裏で悪巧みをするような男は特に」
その迫力ある圧倒的な美に、リリアーナですら息をのんでしまった。




