16話 いってらっしゃい
ついにダニエルたちが出発する時が来た。
大きな荷物を傍らに置き、リリアーナに向かいあうダニエルはいつも通りに見えた。ひと月も離れることが嫌なのはリリアーナだけなのだろうか。
「怪我には気を付けてね。用事が終わったら早く帰ってきてね」
「はい。リリアーナさんも変わりなく過ごしてください」
魔石を求めてダビドの故郷の近くへ行くと聞いている。ドワーフ内最大クランとして君臨するエズラ・オレン。クランとは血筋からなる派閥で、リリアーナたちが暮らす国で例えるなら結束の固い領地のことだ。ドワーフ国は統治者がいない、ということになっている。その代わりクランの代表が話し合いで決めているという。最大クランであるエズラ・オレンは実質王室のようなものだ。その関係者であるダビド。やはり年頃の貴族子女であるとどこまでもそんなご縁があるのだなと思った。悪いことにはならないと信じたい。けれど。
リリアーナは意を決した。ダニエルの袖をちょんと引っ張り、こともなげに言ってみる。
「いってきますのキスは?」
「ん?????」
本当は心臓がどきどきしてたまらない。困惑するダニエルは半歩後ろに下がったけれど、リリアーナも負けずに身を乗り出してダニエルに迫った。ダビドやポチやメイドや、まわりに人がいるのは知っている。けれどそんなのに構っていられない。
「夫婦は離ればなれになる時にキスをするのよ。またすぐに会えますようにって願いを込めて。だから」
上を向いて、目をきゅっと閉じて、ダニエルからのアクションを待つ。緊張して手がわずかに震えてしまう。
「……リリアーナさん」
ダニエルは困っている。それでもじっと待つ。
羞恥で顔が熱くなってきたけど、構わずにひたすら待った。
(やっぱりダメかしら。ダニエルはそういう所しっかりしてるもの。……うう、でもやっぱりしばらく会えなくなるからしてほしい)
閉じたままの目じりにうっすらと涙がたまる。
次の瞬間、空気が動く気配がした。顔に影がかかったのが目を閉じたままでもわかる。同時に、頬に当たる柔らかな感触。
一瞬のことだったけれどリリアーナにはわかった。
「ダニエル、いま」
すぐさま目を開けて見上げるダニエルは首まで赤くなっていた。手の甲で口元を押さえ、リリアーナを直視しないようあらぬ方向を向いている。
「………………すみません調子に乗りました本当にごめんなさい」
なんてことだろう。
「ダニエル!」
たまらずにリリアーナは愛しい夫に抱き着いた。広い背中にぎゅっと腕を回して胸元に顔を埋める。嬉しいと大好きの気持ちが交互に顔をだしてもう胸がいっぱいだ。
「いってらっしゃい。あなたの帰りを待ってるわ」
「……はい、いってきます」
どんどん小さくなる夫の後ろ姿。
ダニエルの姿が見えなくなるまで、リリアーナはその場を動かなかった。
◇
自室でひとり、息をつく。
テーブルの上には書きかけの手紙が一枚。「親愛なるお姉様」とまで書いて、そこで止まっている。
(……お姉様、どうしているかしら)
リリアーナは姉のことが大好きだ。それは今でも変わらない。けれどダニエルの一件で、まだ心がざわついているのだ。定期的に送っていた手紙だったけれど、ここ最近は筆が重くてたまらない。
ダニエルに無理難題を吹っ掛けたことはまだ許せそうにない。リリアーナを罰したいのなら彼を巻き込まずに直接言ってほしい。けれど姉はその件に関しては無言をつらぬいている。あくまでダニエルがリリアーナに相応しいかを試しているのだと、そればかりだ。
もともとダニエルとの偽装結婚は姉の怒りを鎮めるためにやったもの。
いつか貴族の世界に帰るのだという思いは多少なりとも頭の隅にあった。けれどダニエルのことを好きになってしまって、本当にこのまま夫婦として暮らせないかと欲をかいた。その結果がこれならば、真に責められるべきはリリアーナ本人だ。そもそもジョセフという姉の婚約者と仲良くなってしまったことが発端なのだからリリアーナの罪は重い。
じゃあ大人しくダニエルと別れて伯爵家へ戻ればいいじゃないかとも思う。けれどダニエルは今リリアーナの為に行動している。彼の決意と覚悟を勝手に無にするのも嫌だった。
『リリアーナさんが望む相手と結婚できるようお願いします』
思い出しては胸がぎゅっと痛くなる。
これから先どうなるか、どうしたらいいのか、本当にわからない。
姉だって、ここまできてジョセフと婚約を続けるのは難しいだろう。婚約を解消して、そこから誰か婿を探すだろうか。ああ見えて無気力な姉だ。跡継ぎは親族の中から適当に指名して、自分はひとりがいいと閉じこもる気がしている。
(お姉様……)
姉に伯爵家の何もかもを背負わせてしまっている。
もちろん領地経営には複数の優秀な人材を置き、姉が短期で不在になっても滞りなく進むようになっている。けれど重責を背負っていることは変わらない。
賢くもないリリアーナにできるのはせいぜい婚姻にて他家と縁を結ぶことで、それすらも放棄しようとしているのに、どうして姉を責めることができるだろう。どうせならこんな猶予なんて付けずに問答無用で他所に嫁がせればよかったのに。
ふう、とひとつ息をつく。
結局答えはでないまま、手紙の続きを書くべくリリアーナはペンを握りなおした。
今リリアーナに出来るのはダニエルを全力で応援して、どんな結果になろうとも、それを黙って受け入れること。例えジョセフと結婚することになってもだ。
ひとりになった部屋で刺繍をしていても、なかなか気持ちが上がらずに手が動かなかった。頬にキスされたことを思い出して舞い上がってはちくりと指を刺し、かと思えば姉のことを考えてもやもやし、また指を刺してしまう。見かねたメイドが息抜きに出かけてみてと提案してきたのでありがたく乗ることにした。
久しぶりの街並みに心が躍る。
出歩く家族や恋人たちを見ると自分まで温かな気持ちになった。
「久しぶりだね、リリアーナ」
かけられた声にピタリと足を止める。
振り向くとそこには美しい青年がいた。
整った目鼻立ち。薄い唇がにこりと弧を描いている。青みがかかった銀髪が風になびく姿に、おぼろげな記憶が浮かび上がってきた。幼少の頃に滞在した保養地で半年ほど一緒に遊んだ男の子。
「……ヴィクター様?」
嬉しそうに細められたその瞳に、どうしてだかリリアーナの背筋がすっと冷えた。




