78.交錯するもの④
後方から現れたライオネルは、アグレアスの胸を貫いた剣をそのまま横に薙いだ。生身の人間なら、その時点で絶命していてもおかしくはない。だが血飛沫が僅かに跳ねたのみで、アグレアスが斃れる様子は無い。
しかしアグレアスのその白く美しい顔は、これまでの穏やかな余裕の笑みから一転して怒りに染まっている。
「……ライオネル……この、騎士崩れが……!」
まるで人形のようにその首がライオネルの姿を顧みて、怨嗟の篭った声を上げた。
「……やはり、この程度では致命傷にはならないか。しかし再生速度は随分と遅いようだな」
ライオネルはアグレアスの首を後ろから掴み、振り抜いた剣の血を払った。その剣もまた加護を得て光を帯びている。
斬られた上体の再生は遅く、逃げる余裕は無いのだろう。ごぼりと血を吐きながら、アグレアスは手にあった長剣を床に突き刺した。びきびきと音を立てて厚い木板が割れ、隙間から赤黒い粘液がアグレアスの長剣を這うように昇って来ていた。
「ギルバート、今のうちに下肢の魔獣を討て……!」
「……! わかった!」
ライオネルに言われてすぐさま、アグレアスの半身を成す魔獣のような部位目掛けて、ギルバートは戦斧を振り下ろした。斬撃と共に小さな雷撃が走り、四つ足の獣のようなそれは霧散する。
それによってアグレアスはバランスを失って地に倒れた。アグレアスが身に纏う高位貴族らしい豪奢な貫頭衣は膝のあたりで途切れ、裾は不気味に厚みを失っている。
そこに本来ならあるはずの人間の脚が見当たらない事に、ギルバートは思い切り顔を顰めた。
「これでしばらく動きは抑えられるはずだ。何か、こいつを拘束出来るものは……」
ライオネル達が数人がかりでアグレアスの上体を羽交い絞めにしながら、周囲を見渡している。アグレアスは諦めたのか、青白い顔のまま黙り込み、大きな抵抗は見せていない。
──フローラさんのブローチから、またアイビーの蔦を出してもらうのは……。いや、危険だな。
思案しながらギルバートは床に突き刺さった戦斧を引き抜こうとして、その手にある組紐をじっと見た。
「そうだ……。ドルフ爺さん、フローラさん、組紐ってまだ残ってるか?」
結界越しに馬車に向かって声を張り上げれば、フローラがすぐさま馬車に駆け戻って、それからまるで牽引用にでも使えそうな量の、幾重にも巻かれた組紐の束を持ち出した。
拘束に充分どころか、アグレアス十人分くらいは縛れそうな量があった。
「……い、いつの間にそんなに……!?」
「あ、あの……実はケルヴィム領に居た頃に、お役に立つかと、手が空いた時間に作っておりまして……」
組紐の束を抱えながら、フローラが照れ笑いしていた。
鉄糸が編み込んである組紐はとても頑強な造りをしている。フローラの祝福が篭もったそれをアグレアスの拘束に使うのは些か気に食わないが、それでも他の方法より確実に捕らえられる確信があった。
ライオネルに手渡せば、組紐を使ってアグレアスを動けぬように縛り上げ、念入りに雁字搦めにしていく。
「ふむ、良い案だな。どれ、物は試しだ。儂も祝福を込めてやろう」
司祭シドニーがそんな事を言いながら、アグレアスを拘束している組紐に向かって手を翳した。
「……人として裁かれよ。その為にこそ、おぬしはここで命を落としてはならぬ」
シドニーの表情は真剣そのものだ。その祈りは、長く女神に仕える者としての矜持のようにも見える。
一方のアグレアスは、ついさっきまでの饒舌な様子と比べれば、奇妙なほどに無言だ。
──どうも、何か様子が……。
訝しんでいるうちに、床が再び揺れ始めた。揺れは次第に強くなっていく。
「ああ、クソ、やっぱりこいつの目的は、時間稼ぎか……!?」
ギルバートは戦斧を構えて振り返る。しかし眼前の、最も近距離にあった不死スライムが退いて行くのが見えた。
「……なんだ? 逃げてる……?」
「いや、違うな……。中央を見ろ」
ライオネルに言われてアリーナの中央を見れば、とてつもなく巨大な柱のように赤黒い泥が盛り上がって行く。
「ははははははっ! 言ったでしょう。時間の無駄だと。はじめから、もう何もかも手遅れなのです」
アグレアスが、けたたましく笑い始めた。気を違えたような笑い声は不気味さを増している。やけに大人しくなった理由を察して、ギルバートは息を吐いた。
「増殖して、その上さらに大集結ってところか……」
「ご名答。貴方がたが呑気で助かりますよ。そもそもが、私は敵情視察に来ただけでしてね。時間稼ぎでさえ無かったのですよ。全てがあれに飲まれてしまえば、どう転んでも同じ事。ああ、しかし、私を消滅させなかった事は、後悔するかもしれませんね」
拘束されたまま、アグレアスはまるで嘲り煽るように告げる。
わざとらしく侮蔑と嘲笑を込めたような饒舌な声に、ライオネルもギルバートも、揃って眉間に皺を寄せた。
「全く、やかましい男じゃな。とりあえず黙らせておくか」
どこか気の抜けるような声に振り返れば、漏斗を手にしたドルフと、魔法の杖みたいに玉杓子を持ったバーバラが満面の笑みで立っていた。後ろには魔法の鍋を抱えて困ったように笑うフローラも居る。
「おぬしのような自尊心の高い、策士気取りの若人には、儂らの愉快な悪ふざけが一番屈辱的だろう?」
「はっ、馬鹿どもが。遊んでいる間にもう…………ゴホッ……ぅぐっ」
アグレアスの言葉を遮るように、ドルフは問答無用で口に漏斗を突っ込んで、バーバラが慈愛に満ちた顔で例のスープを流し込んでいた。
傭兵の男が真顔でアグレアスの頭を固定している。もはや珍妙な拷問にしか見えず、ギルバートはライオネルと目を合わせると半笑いを浮かべた。「鍋ごといきますか?」というフローラの声が聞こえた気がして、思わず二度見してしまった。
場違いな程に気が抜ける光景から目を逸らし、ギルバートはもう一度、中央にそびえる不死の巨大な柱を見上げる。天でも目指しているような大きさだ。
あれが一気に崩れて周囲を襲えば、瞬く間に全てが飲み込まれてしまうだろう。あまりにも巨大なその姿に、それはこの闘技場だけでなく、王都にすら及ぶのは予想出来た。
「あとはあれを、どうするかだな……」
深く息を吐いてみるが、妙案は浮かばない。地道に削ってどうにかなる域では疾うに無いのは明白だ。
「心配要らないよ。ここにはもう、祝福が満ちている。あとは標を結べばいいだけさ」
バーバラが、何故だか楽しそうにのんびりとそう告げた。




