71.標の魔法使い
闘技場を覆う赤黒い不死スライムに、わたくしは言葉を失ってしまいました。北部ジエメルド領で見たものよりもずっと大きく広がって、観客席まで飲み込んで居ます。
不死スライムに飲まれても、すぐに命を落とす事は無いのだと知っていても、見える光景は不気味で恐ろしいものです。だけど焦っても解決は出来ません。大きな脅威だからこそ、冷静な状況判断が必要なのでしょう。
「さて、ひとまずは作戦会議の時間を稼ぐとするか」
そう言って、司祭シドニー様が御者台から降りて一歩前に出ました。同じく前に出た聖職者様と共に手を翳すと、前方にアイビーの模様を描く光が浮かびあがります。広域結界が展開されていきました。ですが──……。
「お? なんだ?」
「何事だ、鎧の中が光ってるぞ……?」
「むむ、何やらおかしいな……」
傭兵さんや黒騎士さん、ドルフさんが驚きの声を上げています。
広域結界の展開と同時に、周囲に居た皆さんの身体の周りを薄い膜のような光が包み込んで行くのが見えました。
「どうやらこいつだな、これが光ってる」
そう言って傭兵さんが革鎧の中から引っ張り出したのは、ギルバートさんとわたくしが願掛けをした、アイビーの形のボタンが付き刺繍が入ったシャツの襟口です。
「ほう……。これは面白い! 儂らの結界魔法がそのボタンと刺繍を介して遠隔分離されて、それぞれに個別の結界を生んでいるようだな。得した気分だなこれは!」
シドニー様が感心したように笑っています。わたくしもギルバートさんも思わず口を開けて顔を見合わせてしまいました。願掛けと思っていたら、祝福が宿ったのでしょうか。
「こんな事が起こるなら、ベレスフォルドの騎士の分も作っておけばよかったな……」
「時間がありませんでしたものね……」
そんな事を言っていたら、シドニー様がにやりと笑います。
「いや、これで聖職者にだいぶ余裕が出来る。充分心強いさ!」
「さてそうなると、後は武器だな。まさかここに来て鉄食いとはなぁ。こんな事なら、全員の武器にメッキでもしときゃ良かったか……」
ドルフさんが思案しながら呟きます。それを聞いていて、ふいに思い出した事を尋ねてみました。
「防錆の油を、今から調達するのは難しいでしょうか……? わたくしの生まれ故郷の南部では、羊毛から取れる油を錆止めに使っていた記憶があります」
「ふむ、ウールグリースか。錆止めには丁度いいんだが、今から街に戻って充分な量を確保出来るかだな」
「……そしたら、あたし達の出番かねぇ」
御者台に出て様子を眺めていたバーバラさんが、振り返ってにっこりと笑いました。
「婆さん、やれるか? かなり数が多いぞ」
「大丈夫さ。だってもう、あたし一人じゃないからね」
鼻歌混じりにそう言うと馬車の荷台に戻って来ます。
「標の魔法使いの真骨頂を見せてやろう」
バーバラさんは楽しそうに、わたくしの肩を叩きました。
「前に言ったね。無私の祝福を持つ者は皆魔法使いだって。その中でも特に強い標と増幅の力を持つ者を『標の魔法使い』と呼ぶ。そしてここに、あたしの一番弟子にして、あたしの知る中でも最も強い標の魔法使いが居るからね」
思わず目を見開いてしまいました。
「一番弟子!? フローラさん、いつの間に……!?」
ギルバートさんが驚きの声を上げています。わたくしも驚きです。
──だけど、もし本当にそうならば。今、わたくしが皆さんの為に出来る事があるのなら。
「お鍋に掛けた魔法は、『お腹いっぱいになるまで料理が無くならない』、ミシンに掛けた魔法は、『作ったものが誰かの役に立つ』、そんな風に標の魔法使いは、加護の道標となり、同時にある程度は祈りで効果を定められるんだ」
バーバラさんに手を引かれて、荷台の小屋の真ん中に座ります。わたくしの前に、壁から取り外した、職人の村の子供たちが作ってくれた女神像が置かれました。
「さあ、フローラちゃん、あたしと一緒に魔法を掛けよう」
姿勢を正して、深呼吸をしてみます。視界の端で、馬車に同乗していたチェルシーさんが戸惑ったような顔をしていました。
「ああ、チェルシーちゃんだっけ、あんたも一緒に祈ろう。ここに大事な人が居るんだろう、急がなきゃね。ギルバートもだよ! それから手の空いてるみんなも頼むね。祝福は掛け合わさればもっと強くなる。なんせ数が多いもんだからねぇ」
バーバラさんは笑みを浮かべながら、ギルバートさんにチェルシーさん、聖職者様たち、馬車の窓から顔を覗かせる皆さんにも声を掛けます。それから、わたくしの正面に座りました。
「道標のしるしはもう付けてある。柄に細工をしたのがちょうど良かったね」
そう言われて、皆さんの武器の柄に滑り止め加工を施したのを思い出しました。
「あとは頭の中で、さっき言ってたウールグリースを、皆の武器に塗るような想像をして。だけど、祈る内容はいつも通りでいいよ」
「はい……!」
すぐそばにチェルシーさんもやって来て、女神像に向かって祈り始めています。隣にギルバートさんが座る気配がしました。
手を組んだら目を閉じて、大切な人たちが誰一人欠ける事無く、無事である事を祈ります。
閉じた瞼の向こうが、淡く優しい光に満ちていき、暖かい風が吹いた気がしました。
「うん……上手くいったようだね」
バーバラさんの言葉を合図に目を開ければ、馬車の中の光景はいつも通りです。
だけど馬車の外から、傭兵さん達の驚く声が聞こえてきました。
「おい、見てくれ! こいつはすげぇ!」
窓の外、傭兵さんが棍棒を掲げてぶんぶんと振っています。ライオネル様が自身の剣を抜いて、言葉を失っています。皆さんの手にしている武器が、全て淡く光を放っていました。
ゴリアテ様の追加武器も同様です。ゴリアテ様と黒騎士さん達が、ベレスフォルドの騎士様達にその武器を配っています。
「ふむ、上出来じゃな。これで鉄食いに食われる事は無さそうだ。名付けて、女神の錆止めコーティング!」
「……名称、本当にそれでいいのか……?」
豪快に笑うドルフさんの傍らで、ギルバートさんが気が抜けたように笑っています。ギルバートさんの戦斧は元々光っていたので……違いがあまりよくわかりませんが、斧刃に巻いてある鞣し革を少しだけずらしたら、前よりも眩しかったので、きっと大丈夫でしょう。
「あとは聖剣と同じ効果があるかは……戦ってみないとわからないか」
「多少はあると思うぞ? よく見よ、小さいがアイビーのレリーフが浮いておる」
「本当だ! えっと、この場合何だ? 聖……棍棒?」
そんなどこか気の抜けたやり取りも束の間、ライオネル様が一歩前に出ました。
「これは……心強いな。では、皆分散して事にあたろう。観客席とアリーナに別れて行動開始だ」
号令と共に移動を始めます。黒騎士の皆さんとベレスフォルドの騎士さん達は、不死スライムに飲まれている観客席に駆けて行きます。
わたくし達の馬車は、何と馬が居ないので、傭兵さん達が人力で引いてくれるそうです。段差を登れないので、必然的にアリーナを担当する事になります。
何より、一番大きな不死スライムの塊が居るのもアリーナです。そしてケビンさんも……それから、きっとエリオットも。
肩に力が入ってしまって、緊張を押し殺していたら、隣にギルバートさんがやって来て、何も言わずに柔らかい笑みをくれました。
たったそれだけで、不思議と呼吸をするのが楽になりました。




