86、 開設式(ゲオルグside)
帝国初の国立活版印刷所の開設式は、帝都郊外に建つ印刷所の前で行われた。
一見レンガ造りの居城にも見える印刷所が、晴天の下に映える。
印刷所の入口前に設置された壇上に立つ俺とフリッカの前には、この印刷所の完成に尽力した多くの人が並ぶ。
都市連邦バナヘイム国家顧問ステファーノ・コロンナ。
書物商ギルド支配人と印刷所で働くことになったギルドメンバー。
フェンサリル領領主パパリーノ・フォン・フェンサリル。侍女のグナー。そしてフェンサリル領の領民たち。
最後に―――出版室室長になったヴェーリル・フォン・エルム。
俺の横には近衛特兵のヘイムダルとバルドルが控えている。
大衆は皇妃の言葉を待ち、壇上を見上げていた。
今日の主役でもあるフリッカは『偽りの創世神話』を携えている。
彼女は壇上の真ん中に立ち、大きく息を吸った。
「この本の内容は、驚きに満ちています」
彼女はブーゲンビリアの花に似た鮮やかなピンク色の瞳を大衆に向けて話す。瞳と同じ色をした可愛らしいポニーテールが、この日を祝うために吹いている心地よい風に揺れた。
「私たちが生まれたときから親しんでいる創世神話が、作り話だったということが書かれています。世界樹は、人間が造った筒です。この大陸の下には、何枚もの大陸が眠っています。そんな突飛な内容を、いろんな文献や遺跡の発掘品、人々のヒアリングから導き出しました」
フリッカは一言一言を噛みしめるように、ゆっくりと発言した。
「私はこれが事実だと思って書きました。でも、信じるかどうかは読んだ人の判断に委ねたいと思います。そして大事なのは、自分がこの本を読んでどう考え、どう生きていくかです。『こんな内容は嘘だ』と思ったら、ぜひ他の本を読んだり、調べてみてください。いろんな人と議論をしてみてください。そして、自分自身の考えを持って、身近なものを観察してみてください」
フリッカの最たる魅力は諦めない心――情熱だ。
俺自身が彼女の「論文を出版したい」という姿勢に何度も励まされた。
前世で無惨に殺され、今世でも何度も命の危機を迎えたというのに、彼女は決して諦めなかった。
出版室でも論文の執筆中はとても楽しそうにしていた。
皇宮の寝室に戻ってからお互いの一日を伝え合う際にも「この内容についてはどう思う?」と熱心に聞いてきた。
前世と何も変わらない。
彼女は皇妃になった今も、子供のような探求心を持ち、熱意を失わなかったのだ。
大家令のフギンは「もう少し皇妃らしく振る舞ってほしい」と苦言を呈することもあるが、フリッカは今のままでいい。
フリッカらしさに触れることで、俺自身が癒される。
そして彼女の論文出版の実現は、いつのまにか俺にとっての願望にもなっていた。
それは、出自の意味も未来も、自分の行動次第で変えていけるという証明になるから。
全て彼女が教えてくれたことだ。
気付けば、頭痛に苛まれ、彼女を喪った日の悪夢にうなされた日々も過ぎ去っていた。
俺はいつだって、フリッカに救われていたのだ。
愛しい彼女の声が、俺を深い思考の底から引き上げた。
「創世神話を信じる人も、信じない人も、何かを考える一助にしてほしい。そして、作者の私が唯一伝えたいことは……これまでの歴史がどんなものであるにせよ、今、大陸で生きる人たちはこれからも歩き続けられる強い人たちなんだということです。私はこの論文を書いているときに、それを感じることができました」
ニブルヘイム人のエテメン・二グルはあの日以降、姿を見せていない。
どこかで俺やフリッカのことを観測しているのだろうが、再び彼と出会うときにこの国が、大陸が、どういう歩みを見せているのかは今は予想もつかない。
まあ、なるようになるだろう。
人はすぐに変わることはできない。
今後また、過激派のような連中が現れるかもしれない。
そうやって大陸の上で数多の出来事が重ねられながら、歴史は作られていくのだろう。
「最後に、帝国初の活版印刷によって出版できたことを感謝いたします。多くの人々の助けによって今日を迎えることができました」
フリッカは、大衆の前列にいるコロンナ先生や父親の名を呼ぶ。
最後にはにかみながら俺のほうを見た。
「そして、出版の自由化に舵を切り、国立の印刷所設立を決定なされた皇帝陛下であり、私の最愛の夫であるゲオルグに―――ありったけの謝辞を述べさせていただきます」
俺はその言葉に口角を上げ、一歩前に出る。
大衆が跪くのに合わせ、お決まりの口上を述べた。
「顔を上げよ」
会場の人々が立ち上がったのを見計らって、言葉を続ける。
「懐古主義派の一掃も終わり、今後帝国では出版を盛んにしていこうと思う。帝国に仇なす者を許しはしないが、そうでない言論出版は推奨する。知恵は国を豊かにする。知恵は国民に恩恵をもたらすだろう。ここにいる関係者たちはそれを肝に命じ、活版印刷所のメンバーとして尽力せよ」
そう言うと俺は、フリッカのほうに向き直った。
「フリッカ」
この名前を呼べることが幸せだ。
「おめでとう」
マントを翻し、右手を差し出す。
この壇上では、俺と彼女は対等な関係でいたかった。
皇妃としての彼女ではなく、論文の筆者として尊敬の念を示したい。
俺の気持ちに気付いたフリッカは、少しだけ頬を赤らめてその手を取った。
「ありがとう、ゲオルグ」
固い固い握手だ。
彼女の手は温かい。
今、俺の前にいる彼女は、生きている。
生きて論文を出版したのだ。
俺にとってはそれだけで十分だった。
――はずなのだが、そのかわいらしさに欲望がうずく。
彼女には「人前でイチャつくのはやめろ」と注意されているが、少しくらいはいいだろう。
小さくてしっとりとした手の肌をなぞる。
そして手の甲に軽いキスを贈って、彼女にだけ聞こえる声で言ってやった。
「これからは論文だけじゃなくて、俺のことも構ってくれよ」
こうして帝国初、国立活版印刷所の開設式はフリッカの大絶叫で無事に幕を閉じたのだった。
次話がエピローグになります。




