77、 佳境の夜にじゃれつく獣
今パパの陣頭指揮の下、活版印刷事業は順調に仕事の分担・習熟が進んでいる。
一方の私は出版室にこもって論文の改訂作業に力を入れていた。
エテメン・二グルが戻ってくるまでの間は保留にせざるを得ない部分もあるが、私の論文は着々と完成が近づいている。
中盤にできた新たな読ませポイントとしては、以前の結婚トラブル時に明らかになったミドガルズ祭祀のあり方、および祭祀場の古語で解読できた箇所である。
祭祀場に描かれていた世界樹は画家に依頼して模写し、表紙絵にすることにした。
あの禍々しいイラストが飾る『偽りの創世神話』の装飾、最高じゃない?
早く手に取りたくてたまらない。
「ミドガルズ帝国が世界樹を崇拝した理由……それは過去に対立していた2つの古代文明に端を発する、と」
妄想が捗るせいか、今日は筆の進みも速い。
「さてと、それじゃ創世神話の“歌”についてもまとめていきますか!」
実は二グルが皇宮を去る前、「せめてもの手土産に」と教えてくれたのが、創世神話の音楽だった。
「初期の創世神話には音楽がついていました。旋律に合わせて詞が語られるのです。ただ、長い時間の中で音楽のほうは廃れたようですが」
「嘘、嘘でしょ!? 音楽があったの!? 」
初期に吟遊詩人たちによって創世神話が流布されたという仮説はあったものの、肝心の歌の存在が立証できずに苦戦していたのだ。
二グルから初めてそれを聞かされたとき、私は頭を前後に振りながらシャウトした。
「そっそれはぜひ聴きたい知りたい見たい歌いたい」
「まあこれは教えても特段問題ないと思うので、いいですよ」
そういって私は二グルが即興で歌う下手くそな歌を聴いた。
私も歌には自信がないので、大急ぎで皇宮の宮廷奏者たちを招いた。
二グルの歌を改めて聴いてもらい、それを譜面に再現する。
創世神話が流布し始めた1000年前に存在していた楽器をかき集め、それぞれの楽器と歌声を合わせて披露してもらう実験も行った。
奏者曰く、「古代琴との相性がいい」らしい。
古代琴は創世神話が流布された初期の頃に爆発的に流行り、その後、すぐに廃れてしまった不思議な楽器だった。
てっきり記録する媒体が音楽から書物に移っていった時期だったから廃れたのかと思っていたけれど、もしかしたら神話の歌と古代琴の流行には関係があるのかもね。
ただ、気になることがひとつ。
どんな楽器で演奏しても、歌は、悲しくて静かなしらべになってしまうのだ。
「どうしてこんな悲しい曲にしたのかしら。これじゃあ流行らないわよ」
すでに発ってしまった二グルにその理由を聞くことはできなかったが、それがいわゆる償いの管理に端緒をなすのだとしたら……。
「もしかしたら歌を作った人は、大陸を滅ぼした罪悪感でいっぱいだったのかもね」
古代琴を抱える吟遊詩人たちはどんな気持ちで歌ったんだろう。
詞を旋律に載せる吟遊詩人だって、何も考えずに歌うことはないはず。むしろ彼らは歌に魂を同化させるからこそ気持ちを込めて歌えるのだ。
世界樹の偉大さを語るはずなのに、なぜか聴いている人を切なくさせる不思議な旋律。
このボタンの掛け違いのような違和感に、繊細な吟遊詩人の中には、創世神話が作り話なのではないかと感じる人もいたんじゃないかしら。
だからこそ、歌は廃れた……?
全てが想像の域を出ないけれど。
罪悪感。
償い。
償いの管理、かあ。
「分からないなあ。ニブルヘイムの人たちは一体どんな思いで世界を管理していたのかしら。早く話が聞きたい」
聞けないかもしれない、ということは考えない。
ダメになったらそのとき考えればいいだけ。
「全部は無理だったとしても、一部だけでも掲載許可が下りないかなあ……。というかニブルヘイムに連れて行ってもらえないかな。どんな国なんだろう。やっぱり空は灰色なんだろうか」
そんなこんなで考えることはどんどん増えて行く。
気付けば夜も更けていた。
元パパも定宿に戻っていて、出版室には私一人。
睡魔と格闘しているうちに意識を失っていたらしい。
後ろからそっと両肩に添えられた手によって目が覚めた。
「まだ終わらないのか」
「……ゲオルグ?」
彼の鼻筋が、耳たぶをくすぐる。さらに茶色いクセっ毛が私の顔の前に垂れてきた。
誰にも懐かない大きな獣がじゃれついている。
ゲオルグは2人きりになると時折こういう態度を取るのだ。普段は恥ずかしいからと注意をするのだが、今は眠さもあってそのままにさせていた。
「作業の佳境とはいえ、最近は論文にご執心だな。妬けるよ」
「そんなことないわよ」
「もっと俺にも構ってほしいな」
「構ってるでしょ……。昨日だって寝る前に抱きしめてあげたじゃない」
半分眠りながら答えた。眠い。
このやりとりが現実なのか夢の中なのかも判別が難しい。
「グルヴェイグの書物商から報告があった。印刷所開業日の目途が立ったそうだな。ここまでよくやったな」
「私の力じゃないわ。2人のパパやギルド支配人、フェンサリル領の人たち……それに何より、あなたの……」
言葉が続かなかった。
ガクンと上体が崩れ落ちたが、覚悟していた顔への衝撃は訪れない。ゲオルグが支えてくれたのだと理解した。
「フリッカ、夢に向かって突き進む君は俺の誇りだ」
耳元で声が聞こえたけど、返事をすることはできなかった。
とっても甘い声。聞いているこちらの耳がとろけてしまいそう。
私を包む彼の優しい気配が、さらに眠りの世界へと誘う。
「君が夢を実現するとき、隣に立っていられる俺は果報者だな。できれば助手としてサポートをしたかったが、それは退位後の楽しみに取っておこう」
ゲオルグはそっと笑った。
体が持ち上げられる感覚がする。
彼の体温を近くで感じれば、私は安心して眠ることができた。
「今日は時間切れだ。大人しく寝室へと移動してもらうぞ。―――そしてゆっくりとお休み」




