第44話 発露
このまま、諦めてくれればいい。
しかしその期待は、一日と経たずに砕かれた。
深夜巡回から帰ると、なんとノアの自室の前に酔っ払ったヴァージニアが座り込んでいた。
(……なんだこれは。幻か?)
予想外の事態に、数秒思考が停止する。
「……何やってるんですか、ここで」
「見てわからない?待ってたのよー、あんたを」
そんなことはわかっている。
能天気な口調と、あまりにも無防備な彼女の様子に眩暈がした。
騎士団員の宿舎とはいえ城内で、王女に何かする者がいるとも思えなかったが、それでも無用心なことに変わりはない。
自室へ戻るように促すが、酔っ払いはぶんぶんと大きく首を振るばかり。
まるで聞き分けのない子供だ。
「ヴァージニア様!」
嗜めるために思わず声を荒げる。
するとヴァージニアはきょとんとあどけない顔で目を瞠り、
「えへへ、……名前、呼んでくれたぁ」
赤く染まった頬を思い切り緩ませて、満面の笑みを浮かべた。
「…………」
不意打ちだ。
次ぐ言葉が出てこない。勝手に心拍数が上がり、顔が熱くなる。
(……反則だ)
ただうっかり、名前を呼んだだけで。
極上のご褒美をもらったように笑うなんて。
こういう意図されない些細な言動が、ノアの決意をぐらぐらと揺さぶりにかかる。
いつもそうだ。
意識して酷な態度を取れば思わぬ反応が返り、ノアの意思とは正反対に、さらにこちらが深みに嵌り、溺れていく。
煩悩を振り払うために、ノアは乱暴に前髪を掻き揚げた。
「わあ、ノアの部屋なんて、入るの初めてだわ!」
結局、お茶を一杯振舞うだけのつもりで彼女を部屋へ招き入れた。
精一杯突き放しても、最終的には彼女に甘い自分に嫌気が差す
酒の入った彼女は最近の沈んだ様子が嘘のようにはしゃぎ回った。
弾んだ足取りで くるくると部屋の中を観察し、楽しげにいろいろなものを取り出しては、嬉しそうにノアに向かって駄目出しをする。
デート相手に王室師団の制服などで来られたら落胆すると呆れ顔で言い放った彼女に、半ば無意識に問いかけた。
「……姫も、ですか?」
「え?」
「姫も、デートでは相手の男性に私服姿で来て欲しいですか?」
何を訊いているのか。
口に出した瞬間自分の言葉にヒヤリとしたが、酒により思考能力が落ちているらしいヴァージニアは特に気にした様子もなく少し考え、小さく首肯した。
「……そうね。うん、私服が嬉しいわ、たぶん。何か、ああちゃんと私に会うために服を選んでくれたのかしらって、思うもの」
……そういうものなのか。覚えておこう。
いや、ヴァージニアとデートする機会などこの先永久にないだろうから、覚えておく理由など皆無なのだけれど。
と、突然ヴァージニアが笑い声を上げた。
何事かと呼びかけると、彼女はあろうことかノアのベッドの上に背中から倒れこみ、そのまま仰向けに横たわった。
金糸が広がる。
「姫!何をして」
慌てて引き起こそうとすると、
「……だって。嬉しかったの。久しぶりだったから。こういうの」
小さく呟かれた声が、僅かに震えている。
交差された両腕のせいで、表情はわからない。
つきん、と胸が痛んだ。
……傷つけ過ぎたかも知れない。
最近は、必要以上に、辛く当たり過ぎたかもしれない。
「…………姫」
急激に罪悪感がこみ上げ、無意識に彼女に向かって手を伸ばす。
「うわっ」
次の瞬間、腕を引かれ寝台の上に尻餅を付いた。
「ふふ、油断したわね。泣いてるかと思った?」
気がつけば、目の前にはノアの胸に両手を置いて、至近距離で見つめてくるヴァージニアの姿。
(……やられた)
先程まで感じていた罪悪感がたちまち霧散し、得意気な金の瞳を軽く睨む。
思っていた以上に、ヴァージニアは強かで計算高かったようだ。
無邪気で無防備な笑顔を見せたかと思えば、こうして悪戯を仕掛け妖しく微笑んでみせる。
(小悪魔だな……)
14歳の今でさえこんなに翻弄されているのに、この先成長したらどうなるのか。
末恐ろしいことこの上ない。
ノアが場違いな感慨に耽っているうちに、事態はどんどん悪化していく。
首に華奢な両手で抱きつかれ、耳元で愛を囁かれる。
「……っ」
まずい。非常にまずい。
寝台の上についた両手で思わず敷布を握り締める。
胸から腹にかけてぴったりと密着している温かく柔らかな肢体。心地良い重み。
ヴァージニアは薄手の部屋着しか身につけていないため、肌の感触を生々しく感じることが出来る。
加えてここはノアの私室。鍵を掛けてしまえば、誰にも邪魔されることはない。
「…………」
いっそのこと理性を捨てて本能のままに行動し、朝になる前に城を抜け出して二度とエストレアには戻らない。そんな選択肢も悪くない気がしてきた。
(って、何を考えてるんだ俺は!)
一瞬でも王家への忠誠よりも自分の欲望を優先しようとした頭を思い切り殴りたい。
しかしこんな状況で完全に無心でいることは、人より多少感情制限に長けたノアでも不可能だった。
それ程ヴァージニアは魅力的だった。恐らく、彼女が考えている以上に。
首元に甘い吐息を感じ、一瞬頭が真っ白になったノアは思わずヴァージニアを突き飛ばした。
「っ、わ……」
「……」
俯いたまま、顔が上げられない。
突き飛ばしてしまったヴァージニアを気遣う余裕もない。
(なんだ、この体たらくは)
心底から、自身に失望する。
グリエルに拾われ、住む場所と生きるための技術を授けてくれたことに感謝したのではなかったのか。
ヴァージニアと出会い、エストレア王家への一生の忠誠を誓ったのではなかったのか。
(……何が)
何が忠誠だ。笑わせる。ザフィエルもセルフィエルも、ノアを過大評価し過ぎだ。
守るべき主に対して恋情を抱き、少し迫られただけでこうも簡単に揺らいでしまう男のどこが、忠誠心に篤いと言うのか。
「……ノア?」
気遣うような声。
違う。ヴァージニアは悪くない。
悪いのはノアのだ。
全面的に、ノアが悪いのだ。
身の程知らずにもヴァージニアを好きになった、ノアが全部悪い。
「もう……いい加減に……。……諦めが悪いにも、程がある。いつまでも、想い続ける資格も、権利も、意味も……ないのに」
思わず零れた、本音。感情の発露。
ヴァージニアの身体が強張るのが気配でわかった。
しかし彼女の顔を見る勇気は出せないままに、ノアは俯いたまま部屋を後にした。
その夜は、自室に戻ることはなかった。




