英雄が死んだ理由〜司書さんは英雄の幽霊に読み聞かせを強要されています〜
「それ、『冬の森物語』ですよね」
背後からの声に、オーレリアは本から顔を上げた。
「あ、はい。そう」
オーレリアが答えながら振り向くと、そこには一人の男がいた。暖かい季節なのに厚手のマントで身体を覆っている。
「で」
風が吹いて、マントが揺れた。オーレリアの言葉が途切れる。
中は軍服だった。服の上からでも分かる均整の取れた身体つき。丈夫そうな革のベルトには、今どき珍しい長剣。
「す……?」
すらっと伸びる長い脚には、ブーツが…………ない。
ブーツどころか膝から下、足そのものがないなくて、まるで浮いているように見える。足があるはずの部分から向こう側が見える。
というか、よく見たら全身ほんのりと透けている。
「ゆっ!? ゆっ、ゆゆっ、ゆっ」
――幽霊!?
オーレリアの言葉は、音にならなかった。しかし男には伝わったらしい。
「理解はお早いようで」
幽霊のわりには生気のある顔で男が頷いた。
同時に、オーレリアは意識を手放した。
*
休日、オーレリアは公園に来ていた。
落ち着いて本を読めそうな場所を探して歩いていたときに、ここを見つけた。
人気はないが、遠くに子どもたちのほどよい喧噪が聞こえている。日当たりがよく、ちょうどいい木陰もある。背もたれにぴったりな石もある。
本を鞄から取り出し、読み始めようとたところで声をかけられたのだった。
「うう〜ん」
目を開けると、爽やかな緑が一面に広がっていた。空は青く、風は爽やか。閉じた本が腿の上に置いてある。
オーレリアはほっと胸をなで下ろした。
「よかった。夢だったのね」
居心地がいいあまり、うたた寝をしていたらしい。
変な夢を見てしまった。足のない男の幽霊が話しかけてくる夢だ。
「夢ではありませんが」
「やっぱり幽霊ッ!?」
「そのようです」
マントの男が歩くように視界に現れた。足がないせいなのか何なのか、猫のようになめらかな動きだった。それが余計に怖い。
「ひえっ、ひええ」
情けない悲鳴を上げるオーレリアだったが、逃げることは叶わなかった。芝生に腰掛けたまま腰を抜かしている。
「怖がらないで。あなたに頼みたいことがあるだけです。その『冬の森物語』を読んで聞かせてほしいんです」
「むり! むりですうぅぅ!」
オーレリアは本が好きだ。しかしそれは一人でゆっくりと読むのが好きなのであって、他人に読んで聞かせたいと思ったことはない。
それに相手は幽霊だ。もってのほかだ。
しゃがんでオーレリアと視線を合わせようとしなくてもいい。怖い怖い怖い。
男は「はぁ」と悩ましげに息を吐いた。
「あなたが背を預けているその石、俺の墓石なんですよねぇ」
「エッ」
「あぁ、死者の墓石を背もたれにするなんて、なんと罰当たりな。うっかり呪ってしまうかもしれません」
ギギギッと身体をねじり、石を見る。
オーレリアが背もたれにしていた石は平べったい楕円形。地面に垂直に埋まっており、背を預けていた面には自然な凹凸がある。
その裏側がなめらかに整えられていることには今はじめて気がついた。風化しているが、文字が刻まれている。ほとんど消えかかっているその文字を、オーレリアは目をこらして読み上げた。
「レイス……ロズベルグ……443 〜466……?」
「はい」
「レ、レ、レイス・ロズベルグさん……って、あの?」
「どの、かは分かりませんが、レイス・ロズベルグです」
レイス・ロズベルグと言えばこの国の英雄だ。
しかしその人物は……
「百年以上前に亡くなっているはずでは!?」
長く続いた戦争からこの国を守って死んだとされるレイス・ロズベルグ。
王都の平和記念公園に慰霊碑が立っているが、中身は空であり、遺体がどこに埋葬されているか分からない、と聞いたことがある。まさかこんなところにいたとは。
「ええ。我ながら若死にしました。その無念さと、本を読んでもらえなかった恨みで、思わず呪ってしまいそうです」
「そっ、そんな、ののの呪いなんて、ひひひ非現実的な……」
「俺は魔法使いですからね。無意識で呪ってしまうかもしれませんね」
魔法。過去にはありふれていたが、今ではほとんど失われた技術だ。
オーレリアも実際には見たことがない。未知の力に恐怖したオーレリアはますます震え上がる。
「ごっ、ご容赦を! こここ公園だと思っていて、お墓だなんて知らなくて! 立てるようになったらすぐに立ち去りますので! 本はお供えいたしますので何とぞお助けをぉぉ」
「読んでもらえるなら謝罪は結構。供えられてもこの身ではページがめくれませんし」
レイスは手袋に覆われた自分の手に視線を落とした。わずかに透ける手は自分の墓石に触れようとして、スカッとすり抜けている。確かにこれでは本を持ち上げることもできないだろう。
「気がついたらここにいました。ずっと『冬の森物語』を読んでみたいと思っていたので、それが心残りなんでしょうけど」
レイスがため息交じりに続けた。
「もういい加減、あの世とやらに行きたいんですよ」
「確かに……確かに、そうですよね」
「分かってもらえますか」
「ええ。確かに私も、楽しみにしている新刊の発売前には毎回『読むまで死ねない』と思っていますし、万が一死んでしまったら墓前にお供えしてほしいとは常々考えていますから。お供えされても触れないから読めない、というのは盲点でした」
「あなたそんなこと考えながら生きているんですか?」
読みたい本があるのに読めない人が目の前にいる。本好きとしては看過できないことだった。
「分かりました。上手く読めるかは分かりませんけれど、精一杯やらせていただきます!」
そうと決まれば抜かしていた腰も復活して、オーレリアは改めて芝生に座り直した。
「助かります。どうぞ、俺の墓石を背もたれにしていただいて結構ですよ」
「そ、そうですか? では……」
レイスもオーレリアの隣に距離を空けて腰掛けた。ない足を芝生に投げ出している。
幽霊のいる場所は芝生がへこまないんだな。オーレリアはそんなことを考えながら本を手に取り、最初のページを開いた。
「それではさっそく、……ごほん。ゆ、雪深い日の、朝の、ことだった。レーンは柔らっ、柔らかな、雪を踏みしめ、ながら、キツネの足跡を辿って歩いていた――」
レーンは森に住む民だ。まだ年若い女だが、狩りの腕は同年代の男にも引けを取らない。
狩りの季節である冬は毎朝、猟犬たちと狩りに出る。犬は獲物を見つけ追い立ててくれる。危険な動物を見つけた時はいち早く教えてくれる。狩りには欠かせない、心強い相棒である。
「あの」
「…………」
先頭を走っていたリーダー格の犬が、「ワン!」と吠えた。続けて「ワンワンワン!」と声を上げる。
これは獲物を見つけたときの合図ではない。危険な動物がいた時の行動でもない。
レーンは首を傾げながらも、慎重に犬の元へと近づいた。
「ちょっと。もしかして一人で読んでません?」
「……あっ」
オーレリアは本から顔を上げた。隣を見ると、レイスが呆れた顔をしていた。
「すみません、つい。ええと、どこまで読みましたっけ」
「キツネの足跡を追って歩いていたところまでです」
「わ、すみません。まだ二行目だぁ」
それからしばらく読み続けて、暗くなる前に本を閉じた。
「少ししか読めませんでした……」
「一人で夢中になって読み始めてしまいますからね、あなた」
「すみませんすみませんすみません!」
「一冊読み終わるまでにどれだけかかることやら。先は長いな」
読みたいからと読書を強要してきたのはレイスの方なのに、ずいぶんと嫌そうな顔をしている。
「あの、では、やめますか?」
「やめません。明日もお願いします」
「ええ……」
オーレリアは肩を落として帰宅した。
*
数日後、オーレリアは仕事に精を出していた。
「貸し出しですね。会員証をお預かりします。こちらの本の返却期限は二週間後です」
「どうも」
「またお越しください。お次の方、どうぞ」
「返却お願いしますー」
「お預かりします……はい、確かに。ありがとうございました」
オーレリアは地元の図書館で司書をしている。昔から大好きな本に囲まれる司書に憧れていた。
静かな環境で落ち着いて働けるのは性に合っているし、常連がたまにおすすめの本を教えてくれたりもする。
就職して三年経った今でも就けてよかったと思える仕事だ。
しかし今は、油断するとため息がこぼれてしまう。
「……はぁ」
「ちょっとオーリィ。最近どうしたの? 具合悪い?」
先輩のルーチェが見かねたように声をかけてきた。オーレリアは慌てて首を横に振る。
「いえ、元気です!」
「じゃあどうしたの? いつも仕事大好きですっ! て感じのオーリィちゃんが」
「ええと……」
言えるわけがない。幽霊に読み聞かせを強要されているなんて。
わけを口にできずモジモジしているオーレリアを眺めていたルーチェは、「はっ」と息を呑み、指を鳴らした。
「もしかして、恋?」
「違いますっ!」
「なぁんだ」
男の幽霊に『冬の森物語』の読み聞かせを強要されてから今日で三日だ。
あの日の別れ際、「明日もお願いします」と言われていたのに、オーレリアは墓地には行かなかった。次の日も。そして今日も、どうしようかと悩んでいる。
幽霊なんて普通に怖い。でも、読み聞かせをしなければ呪われてしまう。それはもっと怖い。
夢であってほしいと願い続けているが、それを確かめに行く勇気もない。
その後も業務を続け、日が暮れる頃、オーレリアは職場を出た。
「……ど、ど、どうしよう……」
職員用玄関を出てからもう数十分、図書館の周りをうろちょろしている。怖くて公園には行きたくない。しかし、このまま家に帰っても安心して眠れない。
「そろそろ呪われちゃうかも……」
「ちょうど今、呪おうと思っていたところです」
「ひやあああっ!」
耳元で囁かれ、オーレリアは飛び上がった。着地に失敗して足がもつれる。転びそうになったオーレリアに声の主が手を伸ばしたが、その手をすり抜け尻餅をついた。
片膝をついたレイスが申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。そんなに驚かれるとは思わなくて」
「どっ、なっ、どうしてこんなところに!?」
「自分の墓を中心とした一定範囲は移動できますから」
そんなの聞いてない、とオーレリアは青ざめた。なんとなく、幽霊はお墓にいるものだと思っていた。まさか外出可能だなんて思ってもみなかった。
「昨日も一昨日も来ないから心配したんです。仕事だったんですね。軍人だったんですか?」
「い、いえ。ここの図書館で司書をしています」
レイスが目を丸くした。
彼が死んだ約百年前といえば、まだ女性の労働が一般的ではなかった頃だ。家事労働以外の女性のまともな勤め先といえば軍だった、と聞いたことがある。
「今の時代は女性の職業にも選択肢が増えているんです。私、子供の頃から本が大好きだったので、ずっと司書を目指していて。三年前に試験に合格して、ここに採用してもらったんですよ」
「そうですか」
レイスはしみじみと呟いて、オーレリアと図書館の建物を交互に眺めた。
「それより、仕事ならそうと言ってください」
「す、すみません……!」
「遅くなるなら来なくていいです。今日も結構です。暗くなる前に帰ってください」
「の、の、呪いの方は……?」
「呪いませんよ」
「よかったぁ!」
ここ数日の悩みから解放されたオーレリアは胸をなで下ろした。立ち上がって土埃を払うと、片膝をついていた男も立ち上がった。
「どうやら俺の行動同範囲はこの辺りまでのようです。帰りは気をつけて。休みの日にまた頼みますね」
「分かりました」
素直に頷いたオーレリアはレイスに頭を下げ背を向けた。今夜は安心して眠れそうだ、と思ったところで足を止めて振り返る。
「あっ、明日、休みです!」
「そうですか。ではまた明日」
レイスは薄く笑って、そのまま透明になって消えた。
「やっぱり幽霊なのね。それとも、移動系の魔法なのかしら」
釣られてオーレリアも笑ってしまった。
呪うなんて言って読書を強要するから怖い存在だと思っていたが、実はそうでもないのかもしれない。
暗くなるなら墓地に行かなくてもいいそうだし、今だって、行動範囲が制限されていないなら家まで送ってくれるような言い方だった。
「ふふふ」
足取り軽く家に帰った。
*
数日ぶりにぐっすり眠ったオーレリアは翌日の午後、公園へと向かった。
公園は今日も賑やかだ。子どもたちが遊び回る広場を抜け、散歩道を反れて少し進んだところに、墓石が一つだけ立つ墓地がある。
「こんにちは」
レイスの姿はない。いないのかしら、と辺りを見回していると、背後から「遅い」と声があった。
「ひゃあっ!」
「いい加減慣れてくださいよ」
「後ろから急に声をかけられたら誰だって驚きますから!」
振り向いた先にレイスがいた。半透明なのに、呆れた顔をしていることがよく分かる。
「本を持ってくるだけでしょうに」
「色々と準備があったんです」
オーレリアは肩に提げた鞄から大きめの敷布を取り出した。墓石のすぐ脇、芝生の上に広げ、靴を脱いで腰を下ろす。
さらに、昨日兄嫁が焼いてくれたクッキーに、保温ポットに入れてきた紅茶。肝心な『冬の森物語』も出せば準備完了だ。
「俺の分は?」
カップに紅茶を注いでいると、レイスが控えめに問いかけてきた。オーレリアは目を瞬かせる。
「触れないのだし、飲めないのでは?」
「そうですけど、気分の問題です。あなた一人だけお茶を飲むなんて」
「ご、ごめんなさい。そうですよね。カップは一つしか持ってきていないので、取って来ます!」
「いい、いい! そうしてる間に日が暮れてしまいそうです。読んでください」
腰を上げかけていたオーレリアは、レイスに止められて座り直した。
「レイスさんも、お隣どうぞ」
「……どうも」
レイスも並んで座る。先日の続きから読み始め、暗くなる前に帰宅した。
次の休みもオーレリアはレイスの元を訪ねた。同じように敷布を敷いて、紅茶とクッキーも取り出す。
「俺の分は?」
「今日はちゃんと、ほら」
カップを二つ持ってきている。暖かい紅茶を注いで、座ったレイスの前に差し出した。
レイスは飲めない紅茶を恨めしそうに見ている。
「紅茶が好きなんですね」
「ええ、まぁ。でも紅茶なんて嗜好品でしたから」
本を開きかけていたオーレリアの手が止まる。レイスは紅茶を見つめたまま話を続けた。
「一定以上の階級になれば紅茶も支給されるんですが、俺はまだ軍属し始めたばかりで、到底手に入れられる代物ではなくて。なので、上官を脅して紅茶を入手していました」
「軍人が上官を脅すとは?」
レイスはその時のことを思い出しているのか、一人で笑っている。よほどおかしな出来事だったのだろうか。
一体全体どういう軍人だったのだ、この幽霊は。軍の上下関係とは、英雄とは、とオーレリアは遠くの空を見上げた。
「さあ、雑談はおしまいです。続きを」
「はいはい」
「はい、は一回でよろしい」
オーレリアは気を取り直して本を開き、前回の続きから音読を再開させた。
黙読なら一日で読破できそうな本も、音読となると大して読み進められない。オーレリアは休みの日ごとに公園に通い、レイスのために『冬の森物語』を読み続けた。
慣れてしまえば案外楽しいものだった。
来るのが遅い、歩くのが遅い、読むのが遅い眠くなる、などと文句を言われるし、うっかり一人で黙って読み進めてしまった時や、ページを行ったり来たりしてじっくり読んでしまった時には冷たい言葉と視線を向けられる。
読んだら読んだで、この幽霊男は登場人物の行動や展開に茶々を入れてくるのでやりにくくてしかたがない。
しかし、今まで本を読みながら一人で過ごすことの多かったオーレリアには、誰かと同じ作品を共有して感想を言い合うなど初めてのことだった。それが意外にも楽しい。
それに、時々レイスが聞かせてくれる百年前の話も興味深い。
この日も公園に来ていたオーレリアは、切りのいいところで本を閉じた。紅茶を飲み、蜂蜜飴を口に含む。
「なめ終わるまで少し待っててください。最近乾燥が気になって」
「まぁいいでしょう。無理なお願いをしているのはこちらですから」
「飴をなめている間、レイスさんの話が聞きたいです」
「俺の? おもしろい話なんてありませんよ」
上官を脅して紅茶を手に入れていた英雄の話がおもしろくないはずがない。
「百年以上も前の話を、当時を知る人に直接聞けるなんて、それだけですごいことです」
「ろくな時代じゃありませんでしたけどね。戦争をしていたのは知っているんでしょう?」
「はい。知識としては」
レイスは今日も飲めない紅茶に視線を落としながら、皮肉っぽく笑った。
「俺は貴族の家に生まれたんですけど」
「えっ! 頭が高すぎましたか!?」
「いいです、楽にしてください。親兄弟は俺より先に死んだそうです。最後に残った俺も、爵位なんて継ぐ間もなくこの有様です。つまり俺自身はただの貴族の息子です」
時々俗物的なところが見え隠れするので忘れてしまいそうになるが、レイスはすでに死んだ人間だ。それもオーレリアとそう変わらないような年齢で。
「物心ついた時にはすでにきな臭くなっていましたね。貴族らしいことを何かしたかと言えば義務を果たすため軍に入ったことくらいで、そのまま俺も死んだようなので」
「あ、あの、私……ごめんなさい」
「謝る必要はありません。実は自分がいつどうやって死んだか、まったく覚えていないんです。気がついたらこうなっていたので」
レイスは他人事のように言う。オーレリアの眉が下がった。
「ちょっと。今あなたが気を落としてどうするんです。それに、軍もそう悪くなくもなかったですよ。上官が紅茶をくれましたから」
「……脅して奪ったんですよね?」
「くっくっくっ」
とうとうレイスが声を出して笑った。
「上官とは言っても小娘でね。まだ子供で、こんなに小さくて」
田舎生まれの平民だったそうだ。なぜこの小娘が自分の上官なのだと、レイスは気にくわなかったらしい。
レイスは手で「このくらい」と高さを示した。
「三歳の姪っ子と同じくらいじゃないですか!」
「冗談の通じない人ですね」
「冗談を言わないようなすました顔して冗談を言うのはやめてください」
「実際のところ、身長はあなたと同じくらいだったと思いますよ」
成人女性であるオーレリアは、レイスより頭一つ分くらい背が低い。
「しばらくしてから知ったことですが、あの小娘は俺より年上でした」
「小娘じゃないですね」
「小娘ですよ。何もないところでよく転ぶポンコツでしたし」
上官に対する言い草ではない。
「でも、あの人の方が圧倒的でした。魔力も、魔法の知識も技術も。魔法に関して彼女に敵うものはいなかった。だから出世して、嗜好品もある程度は手に入れられる身分になっていたんです。本も」
「本ですか?」
希望すれば本も支給される。レイスの上官は支給品として手に入れた本に隠して、一冊の本を大事に持っていた。
所有許可の下りていない大衆小説だった。上官がこっそり読んでいるのをたまたま発見したレイスは、口止め料として紅茶を要求した、ということだった。
「毎月支給品が届く度に紅茶をもらうことができました」
「もらったっていうの、そろそろやめた方がいいのでは?」
「毎回一杯くらいは彼女にも振る舞ってましたよ」
「一杯だけですかぁ」
上官も紅茶が好きだったらしい。毎回半べそで紅茶の缶を引き渡し、振る舞われた一杯を大事に飲んでいた。
その大事な紅茶と引き換えにして手元に置き続けていた本。それが、『冬の森物語』だった。
「知っていましたか? その本はただの大衆小説じゃなくて、政府や軍が猛烈に批判していたものなんですよ」
「えっ。そうなんですか? 今のところほのぼの展開が続いているので、そんな風には思えませんけど」
「戦時中において士気を削ぐと言われていたみたいですね。俺も読むよう勧められましたけど、読みませんでした。戦争が終わったら読んでもいいかと思っていたんですけどね……」
レイスはそれきり口を閉ざした。
棘のある言葉が目立つが、レイスが上官を大切に思っていることは、ぼんやりしていると言われることの多いオーレリアにも分かった。
(上官の女性はどうなったのかしら)
戦争はレイスの没後、間もなく収束している。彼女は生き延びて寿命を全うしたのか、それとも。
きっと調べれば分かる。しかし、平和な時代しか知らないオーレリアが興味本位で調べていいことではないはずだ。
レイスもオーレリアには何も聞いてこない。きっとそれが答えなのかもしれない。
*
ある日の勤務中。オーレリアが所用で席を外してから戻ると、カウンターに利用客が待っていた。
今の時間は先輩司書のルーチェも入っているのだが、案内か何かで席を外しているようだ。
「お待たせして申し訳ありません。返却と貸し出しですね。会員証をお預かります」
オーレリアは転ばないよう気をつけつつ急いでカウンター内に戻り、本と会員証を受け取る。
薄茶色の髪を後ろで一つにまとめているこの男性は、毎日のように図書館に通う常連だ。小説でも学術書でも何でも借りていく。
非常に無口ではあるが、時々「この小説、おもしろかったですよ」と教えてくれるのがこの人だ。人にお勧めされると気になってしまうのがオーレリアの性で、次に借りて読んでみると、確かにどれもおもしろい。
「貸し出し期限は二週間ですが、こちらの本だけ一週間となります」
「…………」
いつも以上に無口な常連を見送る。
見計らったように、オーレリアを呼ぶ声があった。
「少しいいかな」
「あ、はい」
後ろの事務室から館長が顔を出していた。
オーレリアの父親と同じくらいの壮年男性で、いつでも穏やかに落ち着いている人だ。その館長が、明らかに困った顔をしている。
「オーレリア君。悪いんだけど、今度の休みに休日出勤をお願いできないかな?」
「休日出勤ですか……」
少し悩んだオーレリアだったが、断ることにした。
「申し訳ありません。その日は外せない用事が入っておりまして」
「そこを何とかと頼んでいるんだよ」
「す、すみません……」
「なになに? やっぱり恋人なんじゃな〜い?」
恐縮してしまうオーレリアの緊張が勝手に解れるような明るい声が割って入る。いつの間に戻っていたのか、ルーチェだ。
「デートでしょ」
「ち、ち、違います!」
「いいの、いいの。ルーチェ姉さんに任せなさい。館長、そういうわけなので休日出勤ならあたしがしますよ」
ルーチェが胸を張る。
「いや、いいよ。ルーチェ君は子供もいただろう。悪いから他をあたってみる」
「そうですか?」
「お力になれずすみません」
二人でカウンターに戻りながら、ルーチェには「ありがとうございました」と頭を下げた。
「いいのよ。デート、楽しんでね」
「だっ、だから……」
思わず大きな声が出そうになって、口を噤んだ。どこからか視線を感じる気がする。
周囲を見渡していると、離れたところに茶髪の常連の姿を見つけた。先ほど本の貸し出しをしたばかりなのに、まだ館内に留まっていたらしい。
申し訳なさを感じてとっさに頭を下げると、男は背を向け立ち去った。
*
「……踏み固められた雪の上を歩く。やがて見えてきた家の窓からは暖かい光が漏れていた。玄関を開けたサイモンは、「おかえり」と言うレーンの温かい声に迎えられた。サイモンも「ただいま」と言った。サイモンの長い旅路が、ようやく終わりを迎えた」
オーレリアは本を閉じた。
「おしまい」
休みの日、いつものようにレイスのために『冬の森物語』を読み上げていた。そして今日、とうとう最後まで読み切った。
今日で読み終わるだろうことが分かっていたから、休日出勤の申し出を断ったのだ。
一冊読み切ったオーレリアは感無量だったが、隣の幽霊は冷め切っていた。
「何か起こるかと思っていましたが、結局最後まで平和ボケした話でしたね。何がよくてこの本を大事にしていたのかまったく理解できそうにありません」
オーレリアも初めて読んだ『冬の森物語』は、森に住む少女レーンと旅人サイモンの日常が丁寧に綴られた小説だった。
冬の森で出会った二人が同じ家で過ごし、厳しい森での暮らしの中で惹かれ合い家族になっていく。
確かに恋愛小説と呼べるような甘さはなかったし、手に汗握る事件が起きるわけでもなかった。
悪役のいない世界で二人と森の住人たちの生活が続いているだけだ。物足りないと感じる人は多いかもしれない。
「でもこれ、続編が出ているんですよ」
「は!?」
レイスが「信じられない」と言いたげに目を見張る。
オーレリアは鞄から新しい本を取り出した。この日のために貸し出し手続きをしておいた、その名も『春の森物語』である。
明らかにシリーズものと分かるタイトルの本を見て、レイスはいよいよ絶句した。
この反応は何となく予想済みだ。『冬の森物語』を読まずに死んだことが心残りなだけであって、読書が好きというわけでもないのだろう。
レイスは短くない時間悩んでから、絞り出すような声で言った。
「続きも……お願いしていいですか……」
「はいっ」
オーレリアは元気よく返事をしてから『春の森物語』を開いた。
レイスは顔を背けて盛大なため息をついているが、オーレリアはもう一冊分、彼と一緒に過ごせることが嬉しい。
「……すみません。今日はここまでで」
「もう? いつもより早いですね」
一時間もしないうちにオーレリアは本を閉じて帰り支度を始めた。
いぶかしむレイスは、空を見上げて「ああ」と声を上げる。
「少し天気が悪いですね。気付かなくてすみません」
「いいえ。こちらこそ、なかなか読み進められなくて」
「途中まで送ります」
「ありがとうございま……いたっ」
慌てて立ち上がって歩き出した一歩目、派手に転んだ。
「いたたた……」
「何をしてるんですか」
レイスが呆れている。オーレリアは立ち上がって服に付いた芝生を払いながら苦笑いした。
「私、昔っから何をやってもトロくて。無理に急ごうとすると転んだり舌を噛んだりして、余計に遅くなっちゃうんです」
「まったく、いつまで経ってもあなたという人は」
レイスにも常々「公園に来るのが遅い」「読むのが遅い」と言われていた。それでも「早くしろ」と急かされることはなかったので助かっていた。
「あなたは落ち着いて行動すれば失敗しないんですから。ほら、行きますよ」
「はい」
乱れた髪も簡単に整えレイスの背を追う。ゆっくり歩いてくれているのに、オーレリアはまた躓いた。気付いたレイスが手を差し出すが、すり抜けて地面にぶつかる。
「すみません。歩くの速かったですか?」
「いえ、私がよそ見をしていただけですから」
「怪我は?」
片膝をついたレイスに首を振って見せ、また立ち上がって土埃を払う。歩き出す際に周囲を見渡していたら、立ち止まっていたらしいレイスを通り越していた。
「何か気になりますか?」
「え? あ、いえ」
「言いなさい」
丁寧ながらぴしゃりとした口調で命じられる。オーレリアは逆らうことができず、もごもごと答えた。
「気のせいかもしれないんですけど、ここ数日、ずっと誰かに見られている気がするんです」
「誰かって?」
「分かりません。気のせいだと思うし……でも、何だか落ち着かなくて」
気がついたらじっとりした視線を感じる。図書館で働いている時も、町を歩いている時も。朝、家を出た瞬間からその視線を感じた時には恐怖で足が竦んだ。
「それなら無理に来なくてもよかったのに」
「そ、それは……」
「分かってます。来てくれて感謝しています。俺が守りますから、もう心配はいりません」
レイスの目がすっと細められる。
「実体のあるものには触れられませんが、魔法は使えます」
その瞬間、男の周囲の空気が歪んだ。陽炎のようなものが立ち上って、オーレリアの髪も渦に巻き込まれるようにレイスの方へと流れて行く。
呆然と眺めていたオーレリアは、レイスの声で現実に引き戻された」
「失礼。さ、行きますよ」
「あ……は、はい!」
陽炎のようなものは消え、レイスの周囲もいつも通り。オーレリアの髪は重力に従って落ちている。
初めて魔法というものを目の当たりにした胸の高揚は、なかなか消えそうにもない。
図書館の前までやって来た。
オーレリアの自宅は職場の図書館を挟んだ向こう側にある。レイスが移動できるのはこの辺りまでだ。ここからはオーレリア一人で歩いて帰らなければならない。
「ありがとうございました。それではまた次のお休みに」
「――あ」
レイスのものではない声が上がった。薄茶色の髪を一つにまとめた常連の男だ。
じっとオーレリアを見ていた視線はすぐにそらされた。もしかして、とオーレリアの中で嫌な予感が育っていく。
(何日か前にも、この人に見られていたっけ)
オーレリアが声を上げていたから、うるさいという意味で見られていただけかと思っていた。
しかし、毎日のように通う彼なら図書館の中でもオーレリアに視線を向けることができたはず。何の仕事をしているのかは分からないが、毎日長い時間を図書館で過ごしているくらいなら、通勤中のオーレリアをつけて自宅を特定することも。
涼しい時間帯なのに嫌な汗が噴き出してきた。何もないなら通り過ぎればいいものを、気まずそうに視線を逸らしたままその場から動かないのは、どうしてだろう。
「オーレリア君? どうしたんだい、こんなところで」
また別の声があった。館長だ。
上司の姿にほっとしたのもつかの間だった。
「今日は本当に恋人と会っていたのかい? 最近の君はずいぶんと可愛らしくなった。恋人はその男か? ああ、だから彼は毎日のように通っていたのか。彼に可愛がられているのかい? この私がいるのに?」
「……え?」
館長は憎々しげに常連を睨んだ。
オーレリアは何を言われたのか理解するまでに時間がかかった。
「ずっと目をかけていたのに横からかっさらわれるとはね。その様子だと喧嘩でもしたんじゃないのか? どれ、私が慰めてあげよう」
「……い、いや……」
「大丈夫。とびきり優しくしてあげるよ」
見慣れた館長が全く知らない人のように見えた。大きな手が伸びてくるのは分かっているのに、足が震えて動かない。もう声も出ない。
その時、オーレリアの前に影ができた。
レイスだ。そして、レイスのさらに前には常連の男が館長と対峙するように立っていた。常連はレイス越しにオーレリアを見て短く告げる。
「行け」
「っ、あ、で、でも」
「どきなさい、元恋人君。君はもうお役御免だろう?」
館長が常連を突き飛ばそうと手を伸ばし、その手を常連が掴みかえす。押し合う間も館長は見たことのない目つきでオーレリアに視線を向けている。
レイスと常連の二人に「早く!」と急かされてようやく、オーレリアは走り出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……あっ!」
必死に走って角を曲がったところで、足がもつれて転んだ。
館長の胸ポケットには名札が付いていた。鞄を持っていなかった。帽子も被っていなかった。つまり、帰り際にたまたま出くわしたわけではない。きっと近くにオーレリアがいると気付いてわざわざ出てきたのだ。館長ならオーレリアの住所を知っていてもおかしくない。
見られていた。ここ数日の視線は、館長のものだった。
穏やかで優しい、信頼できる上司だと思っていたのに。恐怖と混乱で勝手に涙があふれてくる。
「う、ううっ」
涙と埃でぐちゃぐちゃになった顔で立ち上がると、後ろから幽霊が駆け寄ってきた。
「オーレリア!」
「……レイスさん? どうしてここまで……」
図書館から家の方に向かって走った。ここはレイスの行動範囲ではないはずだ。
「多少は無理も利きますから。それより、すぐに助けられなくてすみませんでした」
悔しそうにしているレイスの顔がいつにもまして薄い気がする。本当に無理をしているのかもしれない。
「わ、私はもう大丈夫です。だから無理しないで」
「何が無理なものですか。あなたこそ無理はやめなさい」
オーレリアの全身を検分して、汚れてはいるが怪我がないことを確認したレイスは、図書館の方を鋭く睨んだ。視線の先から「ボン!」と大きな音がして煙が昇り始める。それに気付いた人たちの声で騒がしくなる。
「今のはレイスさんの魔法?」
「ええ、まぁ……それより、家まで送ります。さっさと帰った方がいい」
「はい……」
オーレリアはレイスに家の前まで送ってもらい、透明になって消える幽霊に見守られながら家に入った。
*
一晩経った、次の日の朝。
この日はオーレリアの出勤日だが、昨日のことを思い出して足が竦み、なかなか出勤できずにいた。
「ど、どうしよう……」
ボロボロになって帰ったオーレリアから話を聞いて怒った家族には「もう出勤なんてしなくていい!」と言われたが、そういうわけにもいかない。玄関の前でうろうろしていると、しばらくしてルーチェが迎えに来てくれた。
「おはよ、オーリィ」
「ルーチェさん! どうして?」
「昨日のこと聞いたわよ。時々館長の言動とか目つきが気にはなってたのに、早く気付いてあげられなくてごめんね。私も他の司書もみんな味方だから大丈夫。一緒に行きましょう」
「そんな……ありがとうございます」
側にはレイスの姿もあった。オーレリアにしか姿の見えない幽霊は口に指をあて、黙ったまま護衛するようにルーチェとオーレリアの後ろを歩いていた。
帰りもレイスが迎えに来てくれていた。ゆっくりと家までの道を歩きながら今日のことを話す。
「昨日付けで館長は降格処分になってました」
「それだけ?」
「出てきたら遠い町へ異動になるそうです。今は警備隊の詰所にいるんですが、私への接近禁止命令も出るかもしれないって」
「よかったですね。少しは安心できそうです」
「はい」
ちらりと隣を見上げる。レイスは涼しげな視線を前に向けたまま、ゆっくりとしたオーレリアのしゃべりに耳を傾けている。
オーレリアの頭の中では今、ルーチェの「恋?」という声が何度も何度も繰り返されている。
「何か?」
「い、いえ」
あんな目に遭った後だ。一晩中、吊り橋効果ではないかと考えたが、「違う」という結論に至った。
たぶん、元々惹かれていた。昨日のことは自覚への引き金になっただけだ。
(幽霊なのに)
彼は百年以上前に死んだ英雄だ。今ここにいるレイスには触れることができない。その身体は誰も知らない墓地の下、固く冷たい土の中に埋まっている。
そうと分かってるのにオーレリアは幽霊に恋をした。
「あのっ。次の休みに、また続きを読みますね」
「よろしくお願いします」
生まれて初めての恋だった。
以来、何の問題もなく休日は穏やかに繰り返されていった。
相変わらずオーレリアは読むのが遅いし、気を抜くと一人で黙読し始めてしまう。レイスもいちいち内容に茶々を入れてくる。
そんな調子なので時間はかかったが、とうとう『春の森物語』も読み終えた。
「やはり何がいいのか分かりませんでした。前作とどう違うんです?」
「レーンとサイモンが結婚して子供も生まれたじゃないですか」
「登場人物が増えただけですよね」
情緒がなさすぎる。
「夏の森物語と秋の森物語が出版されていないことを願うばかりです」
「残念ながら、森シリーズはこれでおしまいです。でも……」
オーレリアは鞄から新しい本を取り出した。
「私のおすすめの本を持って来ました。ここ最近話題沸騰中のミステリー作家さんの作品なんです。冒頭の大事件に、想像もつかない最後のどんでん返し。次はこれを読みませんか? これならきっとレイスさんも気に入りますよ」
「いえ、結構」
レイスはあっさりと首を振った。
「でも」
「もういいんです。読みたかった本は読めましたから」
「で、でも」
「長い間ありがとうございました。内容はともかくですが、満足しました」
「でも、それじゃレイスさんは」
目に涙を滲ませたオーレリアを、レイスは宥めるような優しい目線で見下ろしている。
「ようやくゆっくり眠れそうです。あなたのおかげです」
「もう会えないってこと……?」
「そうですね。でも」
「嫌です!」
とうとう涙が頬を伝って落ちた。困らせたくなかったのに、レイスの困惑した空気が伝わってくる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……でも、好きなんです。まだ一緒にいてほしい……」
「……俺は百年以上前に死んだ人間なのに?」
オーレリアは黙ったまま頷いた。
「俺には他に好きな人がいるのに?」
これにもオーレリアは頷いた。
彼の上官の女性だ。いつも淡々としているのに、彼女のことを話す時のレイスは優しく、甘い顔をしていた。彼に恋したオーレリアが気付かないわけがない。
でもそれは……その人は……。
「あの小娘が先に死んでようやく、俺はこの想いを自覚しました。俺は死んだ今でもあの人のことが好きです。だからあなたの気持ちには応えられません、が……」
レイスが手を伸ばし、オーレリアの頬を伝う涙を拭った。その手つきが優しくて、拭われなかった涙がますます大粒になる。
「……生まれ変わった俺はどうでしょうね」
「う、生まれ、変わり?」
「それでは、お元気で」
「ま、待って! 待って! レイスさん……?」
レイスの姿が消えた。たった今まで、隣に並んで座っていたレイスが。
「レイスさん! レイスさんっ!」
一度呼べばどこからともなく姿を現してくれたレイスが、何度呼んでも出てこない。声が枯れるまで彼の名を呼び続けて、もう二度と会えないのだと思い知らされた。
「レイスさん……」
生まれ変わりなんて言って、いつ生まれ変わってくるのだろう。その時のオーレリアが何歳になっていると思うのだろう。
そもそもオーレリアが恋をしたのはレイスだ。生まれ変わったレイスはレイスではない。適当なことを言って変な期待を持たせないでほしかった。
オーレリアは日が落ちきるまで、二度と現れないレイスの墓の前で泣いていた。
*
――ゆっくりと目を覚ました。
魔法の使い過ぎで昼でも暗く濁った空。土と、鉄と、地上のものが焼ける臭い。レイスが慣れ親しんだ戦争の世界だ。
「生きてる……」
怪我と冷えで痛む身体を動かし目を覆う。そのまましばらく呆然としていた。
ほんの数日前、上官が死んだ。
魔法の才を買われて戦争に投じられた田舎の小娘。その魔法は一度にたくさんの命を奪い、作戦が成功するたびに彼女は望まない出世を繰り返していた。
本当は、一人でのんびり本を読むことが好きなだけのトロい人間だった。急かされるから転んでばかりで部下には舐められ、敵には憎まれていた。毎晩怖いと泣きじゃくり、本の世界に逃げるような、戦争には全く向いていないか弱い娘だったのに。
彼女の小さな身体は、大切に隠し持っていた『冬の森物語』ごと跡形もなく消え去った。
その際にレイスも大けがを負った。意識を失っている間、長い夢を見ていたようだ。
平和な夢だった。
か弱い女でも好きな職業に就いて、休日には紅茶を飲みながらのんびり本を読むことができる。
何をしてもトロい人間がトロいままでも許されるほど平和ボケしきった、まさに夢のような世界だった。
「ああ……そうか……」
夢の中で死んだ時の記憶がないと思っていたが、まだ死んでいなかっただけだ。
レイスはこれから死ぬ。あの夢を夢のまま終わらせず、百年後の未来にするために。
そして、やがて生まれ変わる上官へ、あの退屈な小説のように平和な世界を贈るために。
「ふぅぅ」
大きく息を吐いて、立ち上がる。
レイスが目を覚ましたことに気付いて止めようとする同僚の腕を振り払い、敵陣へと一歩ずつ足を進めた。
歩きながら魔方陣を編む。大きな陣に、後戻りできないほど膨大な魔力をそそいでいく。
味方から十分に離れ、敵の陣営を目視できるところまで来た。矢が飛んできてもレイスは止まらない。
あそこには敵国の王族がいる。命を代償に放つ大魔法により、被害は甚大なものとなるだろう。
平和のために命を奪うなどおかしな話だが、レイスにはこんなやり方しかできなかった。せめて戦争が終わるきっかけになることを願う。
そしてできることなら、次は彼女を笑顔にできるようなことをして生きていきたい。
レイスは暗い空を見上げた。
「ではまた、百年後の未来で」
*
「こんにちは。貸し出しですね……あ」
利用客から本を受け取って、オーレリアはパッと顔を上げた。
明るい茶色の髪を一つにまとめた常連が立っている。一時期は毎日のように図書館へ来ていたのに、しばらく姿を見ていなかった。
「お久しぶりです。あの、以前はありがとうございました」
元館長から助けてもらった。急かされるまま逃げ帰って以来、顔を合わせる機会がなかったのでお礼も言えないままだった。
「こちらこそ怖いさせてしまってすみませんでした。俺の顔を見たら嫌なことを思い出すんじゃいかと思いまして」
「それでしばらくいらっしゃらなかったんですか?」
「はい。今日は恐る恐る来ました」
「ふふ。もっと早くお礼を言わせてくださればよかったのに」
いつもは無口なのに、今日はよくしゃべる。
「……実は俺、魔法使いなんです」
「えっ。珍しいですね」
「本当はあの日、魔法を使ったのは俺の方で」
「俺の……方?」
何となく引っかかる言い方にオーレリアは首を傾げた。あの時、レイスに魔法を使ったのかと聞いたら、「ええ、まぁ」と頷いていたが……。
「それと、紅茶が好きです」
「……?」
「恥ずかしながら、人から奪いたくなるほどです」
「そ、それは……」
「今はもうそんなことしてませんけど」
まさか。オーレリアの中で何かが結びつく。
「あともう一つ。今の俺の職業は、小説家です」
「…………あんなに、情緒のない感想ばかり言っていたのに?」
半信半疑のまま返すと、なぜか得意げな笑顔が返ってきた。
「まぁそこは、ミステリー専門なので。あなたも俺におすすめしてましたよね。それより、今度の休みはお茶でもしませんか? ご馳走しますから」
悪びれる様子もない言い草だった。オーレリアは笑いながら声を震わせた。
「私、好きな人がいるからってフラれたばかりですけど」
「先に死んだくせに後から生まれてきた、どこかののんびり屋さんを待っていただけです」
信じられない。レイスはとっくに生まれ変わっていたようだ。
レイスと出会う前から、オーレリアはこの人を知っていた。
「ふふふ、そうなんですね。少しお待たせしたみたいで。でもお断りします。今の私にも、好きな人がいるので」
幽霊のレイスを忘れられないのは事実だ。そして少しの意趣返し。
一拍置いて、静かな図書館に「は!?」と大きな声が響いた。
交際するまでに二年。結婚するまでさらに半年。
それまでも、その後も、幽霊がつまらないと文句を言っていた小説のような日常が続くことになる。
男は文句の一つも言わず、今もオーレリアの隣で穏やかに過ごしている。




